あまつさえ、喧嘩別れした父のコネで非正規雇用なものだから、僕の態度は最悪だった。面接相手の初老の男性も、きっとこんなやる気のない若造、百貨店の経営者一族からの打診でもなければ書類選考で落としていただろう。
父は母のことを語らなかった。また、聞いても教えてくれなかったが、親族が父の目を盗み僕に教えてくれた昔話によれば、在りし日の母はそれはそれは美しい娘だったそうだ。………家には一枚の写真も残っていないので、僕は写真すら見たこともないけれども。
「………つっ」
そんな僕の過去を知る、「ペンちゃん」に殴られ、切れた唇の端が痛むので、少しばかり話を巻こう。
人の話では、僕は大変に若き日の母に似ており、似過ぎていて気味が悪いそうだ。
僕が母を殺した。
………とまでは言わずとも。
母に似るだけ、父との溝は深まり、今の僕は万年筆を見るのも嫌だ。
僕はそんなこんなで、甘ったれに育っていった。
以上。これまでの話。
そして今。
「おかえり、ペンちゃん」
僕は精一杯の笑顔で振り返る。この家の主である、これまた親の臑齧りで、元・招来有望な医大生、僕の小学校からの付き合いで、元・男友達、今の恋人『ペンちゃん』が面接から帰って来た。
高校の時に実家を家出して以来、僕はペンちゃん(の親)が借りている、家賃月ニ十五万のマンションに転がり込んでいた。
彼もまた両親とはある事情から上手くいっておらず、高校の頃には既に一人暮らしのようなものだった。彼の唯一の同居人だった、弟の章(しょう)が亡くなってからは、彼一人でこの広いマンションで暮らしていた。緩やかなネグレクトにあった僕たちは、なし崩しに二人暮らしを始めて四年になる。
「………」
「ペンちゃん、面接、あっ」
そこまで言って、僕は『言葉選びを間違えた』と悟った。
だけどもう遅い。
スーツを投げ、ネクタイを乱暴に解いたペンちゃんは、いつもの不機嫌そうな顔に冷たい目をして、僕の頬を思い切り引っ叩いた。じん、と頬が痛む。
「ごめ、包丁持ってて、危ない、からっ」
「うるさい」
料理している僕を、ペンちゃんは無表情で、今度は蹴りつけ、包丁が床に落ちた。いつものことなのだけれども、でもこれまでの僕と違って、明日から働きに出ようとしていたので、足に包丁が落ちなくてほっとした。
足の指が切断されたことはなかったけれど、包丁が脇腹に刺さった時は、流石に救急車を呼んだっけ。懐かしく、そんなことを思えるくらい、僕はこんな二人暮らしに慣れ切っていた。
「ごめんなさい」
「穂先、お前、何勝手なことしてんだよ」
金髪に染めた髪には不似合いな、就職活動用の鞄から、ペンちゃんが破れてよれよれになった紙きれを出して僕に投げつける。僕はその汚い紙切れを見て、青ざめた。
ゴミ箱に捨てて、ちゃんとゴミ出しもしていたのに。
僕の記憶に間違いがなければ、書き損じの履歴書は一枚だけだったはずだ。
だけどその一枚の履歴書は確かに僕のもので、ゴミ箱に捨てたときにくっ付いたのか、茶葉が涸びてくっ付いている。
ちゃんと言いたかった。僕の口から、伝えたかった。だけどその機会はもう二度と来ないだろうと、耳まで真っ赤になったペンちゃんの顔を見て僕は悟った。
「ペンちゃんは、今日、面接行かないでゴミ袋を開けてたの………?」
割と引いた。
「口答えしてんじゃねえよ。誰のせいで大学辞めたと思ってんだよ!」
顔を踏みつけられ、力を込めて踏みにじられた。
こんなことをされたのは、小学校の時、クラスメイトにトイレで服を燃やされ、蹴られ、踏まれた、あの時以来だった。
だけどあの時と明らかに違うのは、あんまりに学校が辛くて自殺しようとしていた僕を助けてくれたペンちゃんが………唯一、僕を庇ってくれたはずのペンちゃんが、今は踏みつける側になっているということ。心が、惨めな履歴書みたいに、ぐちゃっと潰れる音がした。
「ごめんなさい」
涙が溢れた。
今日、気付いてしまったんだ。
面接で話した時、でっちあげの志望動機を話した僕には、『やりたいこと』も、『目指すもの』もないんだってことに。「コネで面接して下さい」って、家出して以来、数年振り、恥を忍んで父に電話した昨日には、僕は僕の空虚さを知っていた。
そしてこれがあんまり心地よくない蜜月だったってことも。
「知能指数が低い人間にもの売りはお似合いだろうけど、お前には無理だ。悪いことは言わない。お前、働いて何がしたい訳? 面接してやるよ。言ってみろよ。何のために働こうなんて思った訳? お前は俺に尽くすより大事なことでもあるのかよ? なあ?」
「ごめんなさいっ」
実家を出て行くためだけに、ペンちゃんの家に転がり込んで、最初はとっても楽しかった。そして僕はペンちゃんが望めば、恋人のような「誰か」を演じることも出来たし、彼の理想の母親らしき「誰か」となることも出来たし、こうやって、思い通りにならない社会への怒りをぶつけるサンドバックにもなれた。
だけど、そんな僕は誰でもないんだ。
クソみたいな履歴書よりも、たちが悪い。
薬指の指輪を睨む。僕は彼のことを恋人だなんて、一度として思ったこともない。なのに肯定も否定もしないで、ずっと享受だけして、のうのうと暮らして来た。それどころか、ペンちゃんの『悪い癖』が日に日に色濃くなるのを、止めもしなかった。
「何だって買ってやったろ。お前だって、好きな物を食べられたし、幾らでも良い生活もして来た。それに、俺の『弟のこと』だって、お前がここにいる限りは俺たち二人だけの秘密にしてやるって、約束もしたじゃないか」
頭が軽くなる。
手を差し伸べられる。
「ペンちゃん、ごめんね。ほんとに、ごめん」
「分かったか?」
「もう無理なんだよ。
君が誰より、知っていたはずだろ」
殴られ、僕は二メートルは吹っ飛ばされた。
ふと見上げると姿見がすぐそこにあった。
危なかった。あと数センチも勢いがついていたら、ガラスで全身血だらけになっていたかもしれない。そんな時によぎったのは、これから接客をするのに困る、なんてことだった。
「………」
鏡の向こうには、何だか哀れな人がいた。化粧をして、ロングヘアのウイッグをし、スカートとブラウスを着た、ボロ雑巾みたいな僕だった。
その姿に、死んだ母、万無子が重なる。………会ったこともないけれど。
勿論、ペンちゃんの悪趣味に合わせて始めさせられた、この家でだけしている、僕のこんな恰好の事じゃなく、あんまり人に言えないような、ペンちゃんからの「愛情表現」とか言う、ボウリョクとかセイボウリョクの事でもなく。
身を削って身を削って、それでも好きな人に思いを伝えてしまえば泡になってしまう。人魚姫めいた人生が、僕の身体に重なって見えて、目眩がした。
「殴らな……で。痛いんだ。
ごめんね。ペンちゃん」
「もう殴らない。分かれば良いんだよ」
優しく微笑む彼が、甘くて弱くて、切なくなった。
「僕がいたら、ペンちゃんはダメになっちゃうんだよ。
ペンちゃんが僕を殺すか、僕がペンちゃんを殺すなんて………そんなの、嫌だ」
僕は、無性に肚が立った。
万年筆なんか大嫌いだ。
そんなもの、何の役に立つ! 父親と仲直りさせてくれるのか?(むしろ、仲違えした元凶だ) ペンちゃんを助けてくれるのか?(もう友達ですらなくなるけど) 僕を本当のペンちゃんの恋人にしてくれるのか?(多分それは最初から無理っぽい)
物心ついた時から、ずっとずっと意味が分からなかった!
お父さんも過去の話はしたがらないし!
お父さんとやりづらくて家出して、一人暮らしのペンちゃんの家に転がり込んだら、色々あって親友を最悪の形で失う羽目になったし!
ほんとのことを、言ってよ。
レイプだって、お母さんが言ってたら、堕ろしたいって言えていたら、お母さんも死ななかったろうし、僕はこんなに惨めにならなかった!
万年筆の、ばかやろう。
「分かりたいけど、ごめんなさい。僕は君のこと、恋人だなんて、一度も思ったこと、ありません」
「冗談」
指輪を引き抜いて、僕は投げ捨てた。
ころん、ころん、と指輪が転がり、空気が凍った。
「実家、出たかったから。
合わせてた、だけです。
………許してなんて、言いません」
「 」
ペンちゃんが何か叫ぶ。
でも僕はそれどころじゃなかった。
ペンちゃんの姿が、まるで魔法が解けるみたいに変わっていく。それで理解した。僕がこれまで見ていたのは、中学生時代の、あの優しいペンちゃんの残像だった。止まっていた時間が動き出すように、背が伸び、目付きが鋭くなり、その口臭までドブの臭いに成り果ててしまう。
顔、そんなに汚かった?
そんな声だったの?
あれ?
「………誰?」
「あァ?」
ペンちゃんは、もうそこにはいなかった。ただ大学を中退し、暴力で会話をして、どこからともなくやって来る財産で生活している、見るからに汚い男の人がいるだけだった。それが哀しくて、涙が乾上がった。
頬を拭い、立ち上がる。
一目散に逃げ出した。
逃げて、逃げて、二人で暮らしたマンションは見えなくなった。
でも、逃げ切れなかったものがある。
新居と家賃と敷金礼金、生活費、光熱費に食費に税金、まともな服。
「僕ばっかり」
スカートの裾を握りしめた。食う寝るところに住むところは、働くところが決まって、ペンちゃんに別れを言い渡せた後に、相談する予定が、一気に崩れてしまった。
十二月の寒空に一人でしゃがみ込む。
人通りの少ない住宅街で、一番嫌いなあの人に、辛うじて持ち出せたスマホで電話することにした。出て欲しくないのに、出てもらわないとならないという複雑な気持ちで数コール。そして繋がる。呼吸が浅くなる。
『何だ』
「………」
『用がないなら切るぞ』
「助けて………助けて、下さい。
追い出されて、行くとこない、くなっちゃって」
『………アル中で、ドラック中毒の、あのどうしようもない、幼馴染みにか』
吐き捨てるような言い方。
でも僕は口答えも返事もしなかった。
「探偵使っていたのなら、僕のことも知っていたの? どうして、お父さんは助けてくれなかったの?」
なんて、聞けなかった。
惨めで、もう声が出せなくなりそうだった。あの日、家出する時に吐き捨てた言葉は忘れもしない、「あんたの子どもになんて、生まれて来るんじゃなかった」だ。すらすらとあの言葉は出て来たのに、喉が乾いたペン先みたいに掠れる。
言い返せなかった。
ただ、「どこか、ホテルとか………」と答えるのが精一杯だった。
『今晩はウチに来い』
「でも」
『担当者から合格だと連絡があった。可能ならば明日から勤務して欲しいそうだ』
「明日?」
『場所は追ってメールで伝えると言っていた。初日は午前十時から勤務開始。配属先は現地で現場の担当者から説明する。………スーツはあるのか? ワイシャツは? 靴は? ネクタイは? どこで調達するんだ? 持って来れたか? どうせお前のことだから、身ひとつで追い出されたんじゃないのか』
「うちに行っても、良いでしょうか」
『………うちまで来れるか。タクシー要るか。車は………嫌だろ』
「住所言うから、タクシー呼んでください」
四年も逃げてきたその月日がそうしたのか、僕は弱々しく泣いていた。悟られないように、突慳貪に住所を言った。
***
翌日、僕を待っていたのは颯爽とした、五十と言えば五十に見えるし、六十と言えば六十にも見える女性だった。
「私が店長の千筆 心(ちふで こころ)です。千本の筆と書いて、千筆。
ねえ、大先さん、筆記具に詳しいの?
そういった知識があると聞いているけど」
「いえ。ペンを親のを少し持っているだけで………あの、筆記具売り場に配属になるんですか」
「そのような適性と希望だと伺っていますよ」
筆記具て!
僕は店長の勢いに気圧されながら、父の嫌がらせに呆れた。
確かに母の遺品となった万年筆、三百余本は僕が持っていることになっているけれど、ほとんど実家に置き去りになっている。それに僕は万年筆が嫌いなのであって、間違っても筆記具に詳しい訳じゃない。
「結構」
と言い、店長は、ヒュウ、と口笛を鳴らした。
口笛?
バックヤードでの事とは言え、まさかお堅い業種の(それも年上の)人から口笛を聞くことになるとは思っても見なかった。
「大先 穂先(おおさき ほさき)さん。貴方が配属されるのは文正百貨店の筆記具売り場の販売員。販売するのは主に高級筆記具全般。舶来品と国産品の双方を取り扱う。他に輸入雑貨や革小物なども展開していて、売り場の担当者は社員二名と貴方を含めて、五名が在籍しています。今日の早番は私だけなので、後で他のメンバーを紹介します。
業務内容としてはお客様への商品のご案内、そしてお選び頂けたらラッピングと会計、発注、棚卸し………」
「待っ、あの、メモ!」
「ちなみにレジは食品売り場と違って、このフロアはバックヤード。会計は専用の機械で商品ごとに振られたバーコードを読み込んでから金額の確認をして………」
返事するのも待ってくれないのかよ!
「………シフト希望も今日中に出して貰おうかしら。シフト管理は私が担当しているから、何かあって業務外の時間だったらラインからどうぞ。ちなみに商品の陳列設計も私の担当で」
早足で店舗のフロアまで案内しながら、同時に情報の波が襲う。
「冬場は混雑するから期待してね。すごいから」
「期待………」
「もはや手に持ちきれずに紙袋を二の腕に引っ掛けた人たちが、得物を狙って練り歩くの」
「あの、店長、メモするので丁寧に伺いたいのですが………」
腰掛けのバイトだと思っていた。
もう辞めたくなって来た。
「習うより慣れろ、だよ。聞き流して良い。その時になったら伝えるから。
商品知識についても、大事なポイント以外は教えない。
自分で調べるようにね。
私も知らないこと多いし面倒だから」
「はあ」
面倒なんかい!
「点数も多いから」
売り場に到着する。色とりどりのボールペンやペンシル、万年筆がショウケースに並べられ、ケースから溢れ出す光できらきらと輝いていた。流石に町の文房具売り場とは違うとは思っていたが、これだと文房具売り場というよりもジュエリーショップのようだった。
面倒、は乱暴だと思ったけれども、この点数の商品が一堂に会していたら、確かに、まあ、よく動く重要な商品の知識を叩き込むだけでも一苦労に思われた。
「人気の商品、よく質問されるブランドだけ、まずは教えていくけれども、後は自力で」
「はい………」
「舶来の筆記具を網羅したペンカタログとか、国産商品のカタログを読みながら、店頭にあるものは実際に触って学ぶ。筆記具好きには堪らない」
苦行です。
「どう? 疲れた?」
「いえ」
あれから一時間程、ほぼ商品レクチャーで費やされた。僕と千筆店長の二人しかいなかったけれど、平日の午前はほとんど来店もなかったので問題なかった。
「嫌になった?」
突っ掛かるなあ。
ちょっと険があるような言い方だ。
と思っていたら、思わぬ攻撃が来た。
「辞める? 万年筆は嫌いでしょ?」
「え」
何言ってるんだろう。この人は。
と思うや、千筆店長は静かに告げた。
「鼻の皺が上に寄っているよ。眉も少しだけ逆八の字になっていて。万年筆の話をしている間、少し口を左右に引いてみたりしていた」
ショウウィンドウに映る自分の顔を見詰める。
表情の差異は、自分では分からない。けれども、その推測は「嫌い」については的を得ていた。
「うちは人手は足りている。そこで君の採用………コネ?」
バレた。
「その苗字にしては職遇が合わないけれども、そうある苗字でもないもの。
確かに知識はあるみたいね。
話を聞いている態度からして、ボールペンやメカニカルペンシル、複合ペンの知識は驚く程になかったけれど、万年筆の知識だけは持っている。
でも知識だけ。
海を知らないのにもう海を泳いだ気になっている。勿体ない。
老婆心で言うと、知識に溺れて人が見えていない。だから自分の事も見えていないんだろう」
僕は何も言えなかった。
だって核心を突かれていたから。
鏡を見るまでもなく、僕の顔にはやる気なんてないし、正直、ペンの説明で知らなかったのは、ボールペンと複合ペン、メカニカルペンシル(いわゆるシャーペン)の知識くらいだった。
母の遺品を呪いながら、なんだかんだ、あの万年筆たちについて調べるうち、知識だけは詰まっていたのかもしれない。
だけど、それだけ。実際の売り場ではそれだけではあんまり役に立たない。
「………あの」
そこで十二時を報せる音が店内に響き渡った。「休憩にいってらっしゃい」と言われて僕は一人で休憩室に行くことにした。
この店舗に勤務している他のバイトさんが急な休みになってしまったため、午後もあの人と一緒に働くことになるらしい。
休憩室へ。沈む気持ちで昼食を摂った。
文正百貨店は駅に直結しているため、休憩室からは電車がよく見えた。ここの文正百貨店も何度か来たことがあったけれど、休憩室からの眺めは初めてだった。休憩室にあるコンビニや、喫茶店。文正に在籍している人間だけしか見ることのない、後ろ側。
僕の知らない人の海が足元に流れていく。
人に流されて来た人生だった。外の海かは、知らないけれど。
「ずっと好きだった」
「じゃあ一緒に住む?」
ペンちゃんにそんなことを言った日に戻りたい。その日のうちに、高っかい指輪を嵌められて、(なんかすごいなあ)って思ってるうちに、取り返しがつかなくなるって、あの日の僕に教えてやりたい。
渡りに船で、遭難したよ。
「穂先の全部を俺なら大事にできる」
「うん」
溺れるくらいの甘い言葉に、涙の海。
でも塩水は傷口に沁みて、僕がやっとの思いで荒れた海を出てみたら、浜辺には誰もいない。
「あなたが、筆記具の大先さんね。
お隣良い?」
「ええと」
話し掛けて来たのは見ず知らずの、丸っこい中年女性の販売員さんだった。手もとには透明のバックだけではなく、取っ手のある黒い道具箱を持っている。
誰だか思い出せないでいると、「服飾小物売り場の海野です」と挨拶もそこそこに、「隣座るね」と隣に腰掛けられてしまった。
どういう積もりなのだろう?
気まずさに焦っていると、海野さんは言った。
「もっと上手な痣の隠し方、教えてあげる。化粧は自己流?」
耳まで赤くなるのが自分でも分かった。
ペンちゃんにやられた痕を隠すために昨夜は苦心してみたけれども、プロの目は誤摩化せなかった。なんと説明したものか。
「すみません。てか、バレてたんですね」
「事情は聞かない。聞くなって言われているから」
元化粧品売り場の担当だったからそういうのは得意なのよ、と言いながら海野さんは店員らしからぬ、近所の優しいおばさんみたいに微笑んだ。
「実はね、千筆さんに言われてね。スーツとネクタイの着方、結び方も教えてやれって。だから全部教えてあげる。私あの人に借りがあるから。……内緒にしてと言われたけど、言っちゃった」
黒い道具箱から広げられる化粧品。
青には反対色を入れて消すことを説明される間、僕はどんな顔をしていただろう。
痣のことを知ってて聞かなかった………そんな気遣いが嵐の後の凪ぎになって、頬を柔らかくはたいた。手際よく、優しさに埋もれてしまう傷跡。
「あら、驚いているの?
でも千筆さんはそういう人。気遣いの人。
御令息様にどんな事情があるか知らないけれども、ペン趣味に悪い人はいない、だから期待したい、って言っていたよ」
親も、元恋人もおしえてくれなかった気遣いに少し泣きそうで
「………はい」
と答えるのがやっとだった。
休憩が終わり、戻って来た筆記具売り場には、三十代といえば三十代にも見えるし、四十代といえば四十代にも見える颯爽とした女性が待っていた。
「休憩が長い!」
「戻りました………店長は?」
周囲を見回したけれども、そこには店長らしき女性は見当たらない。
「何を言っているの? 私が店長でしょうが」
店長と似ているが、年齢が明らかに違う女性が言う。
「いや、でも顔が」
馬鹿にされているのかと、周囲を見回してみる。
同じく休憩から戻って来た海野さんは苦笑いしていた。
「同じ人。千筆さんはね、筆記具を売るとこうなるの………私も最初は驚いたけどもう慣れた」
他の売り場の同僚たちも、僕の様子を見て、同じような顔をしていた。
奇妙な状況が飲み込めずにいる僕を意にも介さず、十は若くなった店長が引き継ぎをする。
「大先さんの休憩中にペリカンのスーベレーンM1000緑縞の中字の万年筆が1本、クロスのボールペンが5本も出たの。結構忙しかったのに、労いの言葉もないの? ………聞いている?」
イタリア・ナポリの五日物語(ペンタメロン)に出てくる、若返った老女の物語みたいだ。ちょっと嬉しいことがあって顔が変わる、なんて次元じゃなかった。
「ここは筆記具屋さん?」
「然様でございます」
お客様が来店された事に気付き、店長はすぐさま答えた。僕も背筋を伸ばした。
「綺麗ねえ」
「ありがとうございます」
すると、すっと鼻腔に当たる柔らかな香りに行き当たる。
昔は普段遣いにしていた香り。ロクシタンのファイブハーブスのシャンプーとコンディショナー。僕は使っていなかった、薔薇の香りのボディバターも混ざっているけれど、すぐそれと分かった。
この百貨店で働き始めて、高い物だと最近知った。
服は何処のだろう?
薄手の軽やかなカーディガンも、どこかで見たことがある気がするがうるさくない。クラッチバックを背に回して、つかつかハイヒールで歩む。
「何かお探しでしょうか?」
「ええ、まあ………」
ショウケースを眺め歩く首もとには、ダイヤとルビーが豪華にあしらわれたシャネルのネックレスが揺れる。ホワイトゴールドで椿をあしらったカメリアに、氷の結晶めいたダイヤのアラベスクが連なっていた。
自分だけしか嵌められない、ノーブランドの指輪なんて、足元にも及ばない。
………と、思いをあらぬところに寄せていると、僕の隣から颯爽とした女性………店長が現れた。
「旦那様へのプレゼントでしょうか」
「え? ええ。まあ………」
僕は驚く。
どうして分かったのだろう。
人へのプレゼント。それも、夫へのものだなんて———
「………だと思いました。でしたらこちらは如何でしょうか」
すぐに店長はショウケースの鍵を開け、一本のボールペンを引き出す。迷いなく、銀色のボールペンを本革のペンレストに出す。
「スターリングシルバー製。イタリアの老舗、アウロラのボールペン、イプシロン ソリッドシルバーになります」
「綺麗!」
まあ、綺麗だけど。
いきなりアウロラ?
僕は訝った。ちょっと唐突に思えたからだ。同じような上品なボールペンなら、他にも幾つもある。何個か提案しても良さそうなところを、いきなりこの一本だというのは少し不思議だ。要望に合いそうなものが何本かあれば、それを出すべきだと、先刻レクチャーを受けていたのに。
千筆店長は続ける。
「同感です。イプシロンの名前の通り、クリップはYの形で滑らかな曲線。洒脱で飽きさせない上、イタリアの銀製品はジュエリー同様、高品質です。キャップから軸まで全てがスターリングシルバーとなっております」
僕は千筆店長の言を聞きながら考える。
確かに老舗のブランドだ。1919年創業だし、イタリア北部のメーカーだからか、イタリアらしくお洒落なデザインながらも、他の南部のイタリアメーカーに比べて落ち着いた真面目なデザインの製品が多い。
だけど、 アウロラって、知らねえだろ。とも思った。
日本ではあんまり有名ではない。
一定以上の年齢層なら、昔流行していた高級筆記具ブランド、パーカーとか、クロス、シェーファーあたりが無難じゃないだろうか。
それにこの人はシャネラーだろうし、それならブランドイメージが有名なのを好きなんじゃないか、とも思われた。
「素敵だけど、でも………」
お客様の言葉が濁るのと、視線がそこに向いたのはほぼ同時だった。
プライスはショウケースの中、筆記具の近くに置いてある。
値を見て、女性の表情が曇った。
予算より高かったのだ。
日本の筆記具は、海外製品よりもかなり品質がよかったけれど、筆記具産業に乗り出したのは海外より後塵を排する形になった。そんなこともあり、戦前から現在に至るまで、日本の筆記具は値段の求めやすさも追及して来た。
そんなことがあって、同じくらいのランクの商品であっても、日本の筆記具は海外製品よりも価格水準が低めなのだ。
お客様はうちの筆記具売り場に来る前に、高級筆記具に目星をつけて見回っていたのかもしれない。このデパートの同じ階には、モンブランや、エステーデュポンが店舗を連ねている。誰もがどこかで一度くらいは名前の聞いたことのあるブランドだが、その知名度故か、総じて高級筆記具の中でも輪を掛けて高い。結果、この筆記具売り場に流れ着くお客様も少なくない。という、千筆店長から受けていたレクチャーから総合して考えると、この人ももうちょっと買いやすいものを探しに来た人なんじゃないだろうか。
彼女に取っての予算には、高過ぎる。そういう表情をしていた。
「ねえ………なんか」
気勢を削がれたお客様に、店長はすっと次の商品を出した。
「お色がビジネス寄りの商品もございます」
僕は、そうか、と納得する。
「アウロラ、イプシロンシルバーキャップ ブラックでございます」
今度は同じモデルのキャップだけがスターリングシルバーになっているボールペンだった。持ち手となる軸や天辺のキャップトップは黒のラッカー塗装が施されたメタル素材になっている。価格は銀素材が抑えられている分、かなり買いやすくなる。
「あら。これ良いわね」
プライスをちゃんと確認して、今度はすんなりと価格まで受け入れた上で、女性はそう言った。
こっちが本命、さっきのはシルバーキャップを出すための、前置きだ。
この二つの同じシリーズの商品を並べられると、かなりの価格差なのに、形状が似ているためか、シルバーキャップが手頃に見えてくる。
「人によっては手もとまで銀だと落ち着かない、全部が銀色だと詰まらない、と思われる方もいらっしゃいますし、何よりビジネス向けの落ち着いた配色と言えますね。こちら、お色は赤もございます」
「この黒でお願いします。ギフトラッピングもお願い」
「ありがとうございます」
凄い。
あんなに厳しそうな表情をしていたのが嘘だったみたいに、一瞬で終わった。
シルバーキャップの会計処理を僕が行う間にラッピングを終えていた店長は、にこやかな笑顔で深々と頭を下げた。
「どうも、ありがとうね。大事な機会だから、こういうのを探していたの。だけど、どうしてこれを勧めてくれたの?」
僕の疑問を、お客様が聞いてくださった。
すると店長は「銀色のものに視線がよくいっていたので、もしかしたら、と」と控えめに答え、笑顔で頭を下げた。
「ありがとうございます。どうぞまたお越し下さいませ」
ずっとここまで僕は考えていたけれど、分からなかった。
店長がどうしてお客様の来店動機を知り得たのか。
そして、欲する商品を当てられたのか。
「聞かないの?」
お見送りを終え、店長がドヤ顔でこちらを振り向く。
「大先さんのお考えは?」
答えられない。
「答えないなら勝手に喋ります。ここの文正にクロークルームはあった?」
「いいえ。駅のロッカーをご案内する、でしたっけ。後は特殊なカードの持ち主だったら、頼めば、ですが………」
クロークルームは服や荷物を預かっておくサービスだが、ここの百貨店は来客数がとても多く、駅に直結の百貨店となるため、駅のロッカールームをご案内するに留まっている。
文正には得意客向けの営業部・渉外部が存在しているが、いわば何でも屋なので、上客相手ということもあって割と無理難題を聞いてくれる。ゴールド以上のカードを持っていることが前提になるが、さっきのカードは一般的なクレジットカードで会員カードではなかった。
駅のロッカーはかなり争奪戦が激しい。ここは都内でも利用者数が非常に多い駅に直結しているので、あんなヒールの女性がわざわざ、空きがあるかも知れない駅のロッカーを利用する可能性もまた低い。
だけど質問の意図が見えない。
「こんな十二月に、あんなに軽装の女性はそういないでしょう。クラッチ一つでコートも持っていなければ、そのコートを置いておくべき場所が必要」
「となると、車でのご来店、ということでしょうか」
文正には規模の大きな駐車場がある。車になら、手荷物を置いて買い物を楽しめる。そうだ。僕も小学生の時にこの文正へ来た時には、父さんの車で連れて来られたものだった。当時は特に疑問にも思わなかったが、電車で来ると荷物を預けておけなくなるからだったのか。
「そうね。それもヒールだから、旦那さんが運転していた可能性もある。こんな平日の午後に、車でお買い物。それもとびっきりのアクセサリー」
「大事な日なのでしょうか。………でもお勤めの方で、会社の人への贈り物だとか、お友達への贈り物とか、お子さんへの贈り物だという可能性も………いえ。ない、ですね」
それはない。
言っていて、自分の予想の浅さに気付かされた。そんな恰好で出掛けた日に、自分の子どもや、友人、恩人へプレゼントを買って帰るだろうか。それも紳士服色売り場で。
お粧(めか)しをして、素敵なアクセサリーで、ヒールに、クラッチ。会社役員の女性という線も残るけれども、働く女性の戦闘服に、あんなに見事なホワイトゴールドの椿はちょっと違う。
「大先さん。お客様のお召し物、カーディガンはアースのプチプラだったの、気付いていた?」
「そうだったんですね……ところでアースって何ですか?」
プチプライスの意味だけが分かれば良し、と千筆店長はお包み用のリボンを仕舞いながら苦笑する。
でもそれがどのようにして、あのアウロラのシルバーキャップに繋がるのか?
どうして国産でも、パーカーでも、クロスでも、ファーバーカステルでも、カランダッシュでも、ヤードオレッドでもなかったのか、僕には分からない。
「結婚生活中、銀無垢を贈ったら受けの良いときが一回だけある」
「………銀。結婚」
呟いて、そして聞き返す。
「銀婚式。だったとして、でもそれ、どうやって分かったんですか?」
確かにスターリングシルバーであることに反応されてはいたが、お客様がそのようにお伝えされていた訳でもなかった。
「聞き過ぎ」
「気になります」
「結構」
千筆店長は銀磨き布を僕に手渡し、ショーケースから銀の万年筆を出して磨くよう促す。僕は躊躇しながらも、でも意を決して手を伸ばす。
「ホワイトゴールドのシャネル。あの服にはちょっと熟(こな)れていなかったの。でもあの人はそれが分からない人っていう風にも見えなかった。目立ってしまっていても、それを付けていきたいっていう意思があった」
僕があのカメリアに目を奪われたのは、他よりも浮いて見えていたからか。僕の目は節穴かも知れない。服にも、靴にも、態度にも、答えのヒントは隠されていたのだ。
「それで、試しに高めの海外ブランドで絞ってみようかなって。年齢的にクロスとパーカーは、もう見慣れているように見受けられた。バブル世代って、アメリカ土産だとかでクロスは嫌って程見ているんだよ。パーカーもね、昔はブティックがあったくらい人気だったの。
君たち若人は知らないだろうから、無難な高級ブランドとしか思わないのだろうけどね。
では他の舶来ブランドとなると高い。国産商品となると、海外製品と並べたら有り難みが違ってしまう人もいる。消去法で、しかも類似の型で価格差があって展開されているアウロラを出しただけ」
その人だったら、どう思うだろう?
その世代なら?
無難と思うものは、まるで違う。
「でもこれは私の考え方。お客様は全く違うことをお考えになっていたかも知れない。
私だって間違うかもしれない。
でも人の気持ちを斟酌しようとした気持ちは必ず伝わるはず。
心からの努力をしたならば」
「………」
あなたは日々、どんな努力を重ねてきた?
そう問われているみたいだった。
身の丈に合わない小学校を受験した僕は、あることをきっかけにペンちゃんと知り合いになった。二人の共通項なんて、それまでサッカー倶楽部に在籍していたことくらい。でも彼はいつも成績上位で、スポーツも万能だった。強い憧れを抱いた僕は、彼に追い付こうと必死で頑張って来た。そして系列の中学校に約束した通り、二人で受かった。
だけど中学校で足を痛めた僕はサッカーを辞めざるを得なくなった。別に自分に才能がないなんてのは、小学生の時には気付いていたから未練なんてのはなかったけれど、ペンちゃんとの共通項が失われるのだけが哀しかったのを僕はよく覚えている。
でも彼はカリスマめいていて、自分は色んなチームから声をかけられていたのに、「なんかいーや」の一言ですっぱり辞めてしまった。何でも手に入れられる者の強さみたいで、僕はやっぱり見上げるばかりだった。
発散の場を失った僕は、父と諍いばかりになった。家にいたくなくて、学校の図書館で必死に勉強した。追い付きたくて頑張って、ペンちゃんが行くと言っていた外部の高校を受験して、合格した。その頃に起きたある出来事が切っ掛けで、僕はペンちゃんと親密になれたけれども、やっぱり僕は全然だめで、高校での人間付き合いに失敗してしまった。
中学卒業をしたときに受け継いでいた母のコレクションもまた、僕に影を落としていたのかも知れない。学校で変なのに目を付けられてしまい、僕は標的にされてしまった。ペンちゃんに守って貰って、どうにか卒業できたけれども、思い出したくもない。ペンちゃんと一緒に暮らしていなかったら、乗り切れなかっただろう。
ペンちゃんは医大に行き、僕は違う学部に行った。
ペンちゃん自身は凄く上手くいっていた。
でも祝福なんてこれっぽっちもしていなかった。高校時代、助けてもらっていたけれど、僕はそれがペンちゃんに下心があるからだって、実は知っていた。じゃなかったら、助けてくれないんだよなあって、僕の友情とは違う次元の友情に、何度、切なくなったことだろう。
もっと遡れば、僕は小学生の頃から、ペンちゃんの下心を知っていた。
妬みが全くなかったと言ったら、嘘になる。だから一線を越えようと、誘えてしまえた。僕はずるい。好きじゃない人に嘘を流し込んで、後ろめたい嬉しさと、塩っぱい弱さ、そんな混沌とした感情に任せて、「僕と付き合って」と言えてしまう。
でも退っ引きならなくなったら、嘘だったと、翻してしまう。
僕は努力から逃げたけれど、ペンちゃんにもそうしてほしかった。離さないでいてほしいと言いながら、僕よりも遥かに堕落した彼から、逃げてしまった。
斟酌する気持ちが伝わるのなら、僕のずるさは、きっと見透かされていた。
多分、哀しい嘘で僕が彼を騙してきたのは、彼への贖罪のつもりもあったけど、一番にして最大の理由は、自分に自信を持つためだった。
一人に戻って、働いて、それで気付いた。全部の嘘がまるで泡みたいに消えてから、二日。
僕は自分の足で実家に帰宅した。
「あ………」
スマホの画面にカレンダーのリマインダーが表示される。それで僕たちが付き合い出してから、今日で四年目になるはずだったんだと気付く。
ほんとに僕が彼のことを好きだったら、どれだけ良かっただろう。
実家の本棚に置き去りにした、小学生の頃に買って貰った、欲しくもなかった童話全集が目に留まる。その内の一冊、「人魚姫」のフレーズが蘇った。
人魚姫は己の失った幸いに生きる人々の幸せを見守り微笑む行を
人の幸いを喜び
涙も見せず三百年続ければ魂が天に召される
小さい頃、可哀想な人魚姫に罰を課されていた理由がさっぱり分からなかった。酷い話だと子ども心に思ったものだったけれども、その意味が、すとん、と理解できた。泡となって終わったりなんてしない。
終わってしまった後にも、罪だけは残っていた。
「お風呂は明日にしよう………」
寝間着も全部、僕が出て行った日のまま、当時使っていたものが綺麗にクローゼットに収められていた。家出した日、少しの着替えだけしか持っていかなかった。父と言い争いをした日だったのに、不思議と魔女の宅急便みたいで、ワクワクしていた。
これから一人で生きてやる。
あんなに意気込んで捨てた部屋は、隅々まで掃除が行き届いていた。物の配置も、栞を挟み込まれた机の上の文庫本もそのままに、時が止まっていたみたいだった。………違うか。時間を刻み直すのかもしれない。ちゃんと、「行」に向き合うために。
膝まで生温くて過ごしやすい不幸から抜け出したら、部屋は暖房なしでは寒くって、でもエアコンの掃除は明日に回したくて、布団を被る。
数年も主をなくし、稼働していなかったエアコンは外面は綺麗なのに、フィルターだけが埃だらけになっていた。僕がいつでも帰ってこれるようにしていたのに、でも期待するのをどこかで諦めたような子ども部屋で考えてみる。
辞めたい。父はすぐそう言うだろ、と思っていたことだろう。当の僕ですらも、そうなるだろうなあと確信していた。
でもそれは考え直すことにしてみようと、もうこの時には考えていた。
………いや、店長が凄かったからじゃない。断じて、違う。多分。
あの場所なら、行が、出来るかもしれない、と思えたのだ。
僕が呪わんばかりに嫌う、万年筆たちがショーケースで光を浴びている姿が甦る。きらきらだ。まばゆいばかりの、百貨店。あの場所は僕が怖くて直視できていなかった、家出してまで逃げて来た、あの母からの「贈り物」に向き合わせてくれるような、そんな気がしたのだ。
父も教えてくれなかった、不可思議な母の願いの、その端っこだけでも掴み取ってみたかった。そのために中学卒業からずっとずっと一人でネットと本に書かれている万年筆の知識ばかりは溜め込んできた僕だけれども、それは、紙と人の言葉だけの伝聞に過ぎない。………店頭で役に立たなかったみたいに。
その証拠に、僕は今日まで母の願いの理由には行き着けていない。
どうして万年筆を毎日贈ることが、危険な出産に臨む対価になり得たのか?
そんなの、ペンが好きだから、でも良さそうなものだけれども、でも僕は納得ができない。だって僕が相当の趣味人だったとしても、交換条件が大き過ぎる。それにだ。あの三百余本の万年筆には、限定生産の万年筆や、超高額な万年筆もあったけれど、それはお金でどうにかなるレベルのものだと、自分の拙い調査と研究で分かっている。
ましてや、当時の趣味の人が海外に行ってまで買い求めたような希少品もなければ、当時プレミアがついて高騰していたようなモデルもなかった。どれもが国内の代理店で買い求めることができたはずなのだ。
確かに毎日一本は凄いことだけれども、定番品もその中には含まれていて、お金に不自由していなかった母の実家において、こんなものが大きな交換条件になるとは思われなかった。母が望めば割と何でも買い与えてもらえていたとも聞いている。
母の実家の祖父母は父を快く思っておらず、僕だけは可愛がってくれたが、父が家に立ち入ることは許さなかった。母の話を聞いたときには、必ず父を非難する言葉を交えたものだった。言われた言葉は今でも忘れない。
「あの子は生前、万年筆が好きで使っていたことはなかった」
「産むのを何度も反対して、無理に病院に連れてこうとしたら、あの男に拉致同然に連れていかれてしまった」
お前を産まなければ死ななかったのにねえ、くらいのことを言われてから、僕は一人でもう母の生家に行く気がなくなってしまい、あの日以降はどんなに誘いを受けても行かなくなってしまったけれど、もう行く必要もないだろう。
部屋は寒いけど、ペンちゃんの部屋よりも、落ち着いて思考できている自分にそこで気付く。違法じゃない、ナチュラルな素材がメインで身体にいい、がウリのペンちゃんの変なハーブの煙が臭っていない部屋で深呼吸する。
本とネットの知識でも追い付けなかった母の真意は、外の海に出ていない僕には分からなかった。でも、外海に船出をしたら何かの手掛かりくらい、見付かるかもしれない。
もう答え合わせは出来ないから、本当の答えにはならなくても、あんまりにひどい昔話にショックを受けている十二の僕を、納得させる作り話くらいは見付けてやりたい。
今の僕はクソのクソだけど、でもこれくらいは出来たんだぜ?そのための回り道だったんだぜ?って言いたい。大学中退者の尊厳にかけて。
この部屋で成長することを放棄して、ペンのカタログと万年筆を睨むばかりの、十二の僕にちゃんと説明が出来たら、僕は前に進める。………憶測の憶測だけど。
あの場所なら。
と思っていたら、あまり時を待たずして、あのお客様が売り場に訪れたのだった。
「ねえ聞きたいんだけど」
「はい、お伺い致します」
そのお客様は青いリボンのあしらわれた白いブラウスに、シックな紺色のコートを羽織り、来店された。海外出張から戻ったかのように、スーツケースを引いている。あまり周囲を見回さずに、一直線に僕の前に立って問うた。
その日もまた三人のシフトのはずが、一人のパートさんがお子さんの体調不良で急な欠勤となってしまい、僕と千筆店長の二人だけだった。しかも間の悪いことに、お客様の波が引いた平日の午後三時、千筆店長が休憩に出ている時のことで、売り場には僕一人しかいない。
入社から一週間が経ち、会計の仕方も、お包みも問題なくこなせるものの、もしもあまり馴染みのない修理依頼だったり、難しい対応だったらどうしよう、と一人身構える。
最悪、あと四十分もすれば千筆店長が戻られるので、難しければ「担当者に確認します」で乗り切ることもできるけれど、どうにかして対応したかった。
「万年筆、探してて」
「然様で御座いますか」
静かな喋り方だった。お客様は僕より一回りは上くらいの女性だろうか。言いながら、セミロングの髪が揺れる。近付くとすぐに分かった。透明感のある薬草と花駕篭の香りは、サンタマリアノヴェッラだった。
「インクとペンも探していて」
「既にお決まりでしょうか」
「まだです。雰囲気だけ」
あんまりに迷いなくこちらを見ていた物だから、特定の商品を買いに来たのかと思ったけれども、そうではなく、最初から販売員に問い合わせる予定だったらしい。
「ペンは絶対にイタリア製でお願いします」
言うや、次々に希望が溢れ出る。
「それで暗い色。黒はダメ、白もダメだけど………赤とか青とか、色彩があれば良いって物でもなくて、だけど透明だとかもダメ」
暗い色なのに、色は色彩があれば良いという物でもない?
どんな色だ?
「クリスマスプレゼントでしょうか。どなたか大切な人への」
この十二月は、ほとんどの女性客がクリスマスプレゼント目的だった。
しかしお客様の挙動が、一瞬だけ止まった。
「そうだけど、違うかなあ。
普通は一月六日だけど、日本だから十二月に贈るの」
「左様ですか」
合っているけれど違う?
普通は一月?
一月六日が記念日なのかな………。
「墨汁の墨ではなくて、木炭の炭………。
「はい。御座いますよ」
墨じゃないなら、これだろう。
「パイロットの色雫「竹炭」インクです。サイズは二種類ありますが」
「大きいの」
香水壜にも似た、ガラスのインク瓶を出した。和風の色彩感覚を大事にして配色されたシリーズで、この竹炭もその一つだ。真っ黒い黒ではなくて、淡い寒空にも似合う、日本の水墨画を思わせる竹炭の黒を再現している。
「じゃあ、万年筆もお願い。そうね、炭みたいにくすんだ色。イタリア製でね」
言われながら僕は唇を引き結ぶ。
表情が強ばっているのを知っているのだけれども、だけどその顔を上手く笑顔に形作れない。いつか慣れて来るときまで、笑顔の練習は欠かしてはいけない、と心の奥底で誰かと約束を交わす。
炭の万年筆?
黒はダメ、白もダメ、赤とか青も嫌、地味なのも不可。
そんなのあるのか?
考えろ。幸いにもイタリア指定。樹脂の軸なら色彩豊かだ。
色。特定の色がダメだというのなら、複雑な配色ならどうだろう?
特定の色とは、一色ではないという意味合いに取れなくない。千筆店長がそうしていたように、試しに出すだけ出してみる、というのも一つありだろう。
インクのときとは違って、万年筆は幾つかの候補から選びたいようであるし、そのやり取りからお気に召す物が出てくれば御の字だ。
炭を連想させる、灰色のような色味なら、そんな条件を満たす万年筆が幾つかある。
ショウケースの鍵を回し、ちょっと引っ掛かるガラスの引き戸を開けた。少しだけぎこちない金属音を誤摩化すように、取ってつけたような思い表情をしてみるが、お客様の視線は万年筆にだけ向けられていた。
「こちらは如何でしょうか」
一本目を店頭在庫からペントレーに置いてみる。
ヴィスコンティのオペラメタル「シャドー」万年筆。鈍い色味の金属の軸は灰色と言えなくもないはずだ。
奇抜な色遣いが多いイタリアブランドだけれども、オペラシリーズは四角柱のボディが特徴で、そのなかでもメタルは割と落ち着いたデザインをしている。重いグレーを基調に、ワンポイントのブラックの金属軸は、個人的に嫌いじゃない。
手にとり、お客様は即座に答えた。
「重い。却下」
ご自身用かご進物かどうか、少し怪しんでいたけれども、この分だとご自身用なのかなもしれない。重いことが却下の理由なら、色の選択は誤っていないかもしれない。樹脂でいこう。
「では、こちらなども御座います」
次に出したのはモンテグラッパのフェリチータ「パールグレー」万年筆。モンテグラッパはイタリアの老舗ブランドで、ここも色味や意匠に凝ったところがある。そしてイタリア物は総じて海外の人に合わせて大きく重めにペンを作るところがあるけれど、フェリチータは小さめで男女どちらにも使いやすく、グレー一色の樹脂軸は軽くて使いやすい。
がしかし、僕の思惑とは裏腹に、フェリチータは手に取られもしなかった。
「フェリチータの意味は?」
「………いえ。イタリア語は、ちょっと」
僕は思わぬ質問に戸惑う。
ていうか、イタリア語以外でも外国語は勉強した経験がなかった。
お客様は溜め息混じりに教えてくれる。
「「幸福」とか「楽しさ」とか「嬉しさ」とか、そういう意味。よく使う言い回しは「Buon Natale e Felice Anno Nuovo」かな。「メリークリスマス、良いお年を」って意味………でもそういうの、今はちょっと、そういう気分じゃないかな」
曇る表情。
「左様ですか」
綺麗な発音に驚かされる。本場のイタリア語は聞いたことがなかったけれど、お客様の発音が普段使いにされているイタリア語のように、僕には聞こえた。舌に慣れ親しんでいて、もし肌色や髪の色が違っていたら、日本語の得意なイタリア人にも思えたかもしれない。
「クリスマスなのに年越しなんですね………」
思わず出た呟きに、お客様は少し笑った。
「うん。私も驚いた。クリスマスは家族のイベントなんだってさ。日本とは違って、家族で一緒に過ごす時間だから、クリスマス休暇もしっかり取るところが多いみたい」
「………大変そうですね」
言ってしまった。それで後悔した。でも本心だった。僕にはクリスマスには家族の思い出があまりない。
父は仕事が多忙な時期で、小さな頃から一緒に過ごした記憶がほぼなかった。年末年始も、当たり前に父は家にいない日が続いた。ペンちゃんと暮らすようになってから、一人で過ごすことはもうないだろうと思っていたけれども、今年からはまた一人のクリスマスと年末年始がやってくる。
寂しい冬の時間について批判的になってしまった僕は、慌ててさっきの言葉を取り消すようにして、次の一本を出した。
お客様はこれまでとは違う目で、その一本を繁々と見詰めた。
「ねえ。これ、色が素敵。良いね、これ」
良かった。少し得意になって説明を始める。
「アウロラ、オプティマ「ブラックパール」になります。白とグレーが複雑な石畳のようにあしらわれたアウロロイド樹脂は、メーカー独自の製法で製作されていて、一本一本で模様が違っています。この世に二つと同じ模様はありませんので、特別な一本になると思います」
「うん、綺麗」
少し膨らみのある、滑らかな円柱状のボディは、ころんとして手に収まりやすい実用性のなかに、万年筆らしさもある。
前に売れた金属のイプシロンシリーズは重量感があったけれど、オプティマシリーズは樹脂製のイタリア万年筆の中でもかなり軽く、日本人でも使いやすい。
樹脂は徹底的に綺麗だけど、銀色のクリップは緩やかな曲線と球を組み合わせているし、天辺の天冠と、ペンの一番後ろの尻軸は、黒い樹脂になっていて、見た目で締めるところは締めている。日常使いでも仕事用でも用途は選ばない。はず。
まるで深海を彷徨っていた中で、黒真珠を見付けたかのように、お客様は目を輝かせ、高らかに告げた。
「これ。これにする」
「ありがとうございます!」
ペン先の太さが何種類かあるので、何種類か提示する。
「太めのにして。インクとまとめてギフトでお願い」
「畏まりました。お包み致しますが、」
別のメーカーの商品になりますので、別々でのお包みでも構わないかを聞こうとして、けれどもその途中で、ある別の追加依頼で遮られた。
「それと一つ良い?」
「ええ。何なりとお申し付け下さいませ」
「海外発送してほしいの。イタリアのトリノに送って頂戴。
このペンを真っ二つにしてから、包装して送るの」
「………」
僕は注文の意図が掴めずに少しだけ固まった。
それから、もう一度、ご依頼を反芻する。
真っ二つにする。
万年筆を、真っ二つにする。
「キャップは締めておかずに送る、という意味合いでしょうか?」
「は? 何言っているの?
真ん中で真っ二つに割ってから送って欲しいって意味です。この透明な部分とかで、」
「あ。インクビューですね。そのインク窓で残りのインク残量が分かります………」
「へえ。じゃあ、そのインクビューのところで割ってから送って欲しいの。お金はちゃんと出すし、もし手間賃が必要ならその金額の見積もりを下さい。無理なら私が割ります」
ひょいと取り上げられたオプティマに、僕は青ざめる。
「お客様、あの、すみませんが、お客様のご意向であっても致しかねます………」
「何で」
いや、無理だろ。常識的に考えて。
僕は頭の中で上手い説明をどうにか組み立てながら、対応不可が間違っていない理由をどう伝えるかを必死で模索する。対照的に、もう対応できるものとでも思っていたのか、お客様が先程までの用ストは打って変わって、やや感情的な声を上げた。
「何なりとって、言っていたのは何?」
「えっ」
ダンッと音がして、ペントレーが揺れる。トレーの置かれたガラスのショウケースを叩いたのだ。確かに分厚い強化ガラスで出来ているとは言え、あまりお行儀の良い行為ではなく、僕は少し、いや、結構、その行為について敵意を抱いてしまった。
それが良くなかった。
僕はまだまだ接客の心得が身に付いていなかったのかもしれない。
「壊れたお品物は、弊社よりお出し致しかねます!」
「だから、ここでちょっと割って送りたいって言っているの、分かる? 私が家で割ってからトリノに送るのと何が違うって言うの!?」
火に油だった。それも一斗缶の油で、燻っていた火種が一気に僕の全身を焼き払っていた。顔面の火照りに気付いたけれども、もう手遅れだった。
「致しかねます。故意の破損ではメーカーでの修理対応が出来なくなる可能性もありますので………」
必死で覚えたマニュアルの言葉をたどたどしく辿る。
業火に汗、もう間に合わない。
「それじゃあダメなの!
お願い。
このお店で割って、本国修理にして。
その分の代金をここで支払っても構わないからッ!
そこまで言っていて、どうしてッ?」
「すみません」
お客様と、視線を合わせられない。
目の中が少し熱い。ショウケースの光が眩しい。さっきまで見えかけていた海面の光が、ぐらぐら揺れる。塩っぱい波に縺れた舌は、喋る言葉を捕まえられずに溺れそうで、息苦しい。
ペンちゃん。
もうダメになりそう。
無理そうだよ。
帰りたい。
「………当店では致しかねます」
現実って、脆い。
御伽噺のようには生きられない。
汚いサンドバックみたいに、溺れていく。
きらきらしたショウケースの光に目が潰れてしまう。
でも。
帰りたくない。
「人がこんなに頼んでいるのに、どうして? ねえ、お願いよ。答えてよ」
もうほとんど懇願するような声だった。
でも僕は「申し訳ございません」しか返せない。
海にでも溺れたみたいに喉がひりつく。
「だからね、何でなのか、説明になってないから私はその説明を求めているの。どうしてできないのか、納得ができないって言っているの………分かる?」
好きでもない奴を好きな振り。
惨めな嘘、誰かに償う、サンドバックごっこ。
もう帰りたくない。
泣きそうな僕はほとんど祈るように謝罪を繰り返す。
「お客様」
溺れる耳に届いたのは、若い男の人の声だった。
気まぐれなネコの首輪で鳴る鈴の音にも似た、古く錆びて掠れていて、軽薄そうで、でも憎めない声色に聞こえた。
僕が顔を上げると、ふんわり笑顔を纏った、正に軽薄を絵に描いたような栗毛の若い男の販売員が立っていた。まるで筆記具売り場の一員であるかのように、自然な配置で僕の隣でお客様に微笑みかけている。
「大ッ変ッ、失礼致しました」
え? 誰?
僕は面食らった。まだ入店してそこまで経っていないが、でも売り場の全員とは顔合わせを済ませている。この売り場にはこんな若い男性販売員はいなかったし、近所の紳士服飾売り場でも見掛けた記憶がない。僕より少し年上くらいで、二十代後半くらいに見える。
メーカーの営業担当者かとも疑ったけれど、販売員の胸には文正の名札があり、『栗山』と書かれている。
この軽薄そうな感じは、見たことがあるといえば、ある気もする。
休憩所? 売店? 喫茶室?
朝礼? 夕礼?
………分からない。
「お客様。仰られることは御尤もで御座います。ええ、お客様の意思は確ッかに、弊社の利益を尊重の上でのお話。大変勿体のうご愛顧に存じます。
しかしながら弊社はあくまでも各メーカー様の直営店でございます。
つきましては、当店の一存では致しかねますが、一旦、ご要望を社の上の者と検討させて頂くお時間を頂戴致したく存じます」
「いつ分かるの? それ」
「解答までには然程お時間は頂かない予定では御座いますが、何分、当店でも過去に前例のないことですので………近日中の御解答でも構いませんでしょうか?」
「そう。早くね。お願い。もう時間がないから」
「では言ったんお会計を、宜しいでしょうか」
お客様に見えない背後から、栗山さんに尻を小突かれる。
僕はカードを受け取り、会計対応を済ませ、レシートにサインを頂戴する。諸々の会計対応の完了時には海外配送用の発送伝票も、商品の引き換え伝票も、栗山さんがお客様に書いて頂いている。
お貸ししていた胸ポケットのボールペンは、モンブランのマイスターシュテュック「ル・グラン161」ブラックだった。黒に金、天冠に白いホワイトスターがあしらわれている。
「有り難う御座いますッ。解答は再来店時となります。お品物をご確認頂き、配送手配となりますッ。少将お待ち下さい」
ほっと胸を撫で下ろす。
受け取った伝票の内容を栗山さんが確認して、必要事項をすらすらと書き加える。僕がそこまでまだ理解していないだろうと考えたのか、最後まで全部対応してくれるらしい。
そこで家族連れお客様が、遠巻きに筆記具売り場を見ながら何気なく喋る声が聞こえる。
「ちょっとママ、クリスマスプレゼントないの?」
「パパはなし!」
「俺旦那だよ?」
親子三人で来店されたのだろうか、旦那さんが疲れたお子さんを抱っこしながら、奥さんに「えー」と不満を返す。微笑ましい会話に僕は暫し暖かい気持ちになったが、ブラックパールのお客様は、少しだけ眉根を寄せる。
「二人目できたのが今年のプレゼントって、言ったよね?」
「記念だよ、記念。ほら一生物の記念じゃん? ダメ?」
「昇進した時に取っときなよー」
確かに、その時、ブラックパールのお客様の表情が、深い嫌悪感に満たされたのが僕には判った。でもそれは一瞬の出来事で、伝票の控えを受け取られるとすぐ満足そうな表情に戻った。子ども連れの三人家族も歩き去ってしまっていた。
どうして?
冷たい冬の海風が、胸元を吹き抜けていった。ついこの間の僕も、絶望の奥底に放り込まれていたけれど、そこまで他人の幸せに気分悪そうな顔はしなかった………はずだ。
そんな顔をしなくたって、良いじゃないか。
僕はまた、性懲りもなく、越権的な気分の悪さを覚えていた。人が交わす言葉に苦虫を噛み潰したような表情をする。
ちょっと、分からない。
「「有り難う御座いました。またお越し下さいませ」」
全ての対応が終わり、お見送りを終えてから、僕は隣の栗山さんに話し掛けてみる。
「本当に助かりました」
接客用の笑顔を貼付けたままで栗山さんが振り向く。
「会社に問い合わせれば、出来るって事なんですね!」
「バカか君は」
声の冷たさに、凍る。
「え」
周囲にお客様がいないことを確認してから、栗山さんが僕をバックヤードへ引っ張る。
「あンなあ、壊して売れるワケねーだろ。大問題だわ。常識ある?」
鬼の形相で、凄まれる。
落差がある分、キレたペンちゃんより怖かった。
「でも、さっき、言ってましたよね」
「信頼して頂いてご一考請うのッ。後さあ、お客様の意向をいきなし突っ張ってンじゃねえよ。謝り過ぎだし。何あれ、ドン引きだわな………まあ、俺はそこの売り場の人間じゃないけどさッ、モンブランの売り場に勤務してッけどさッ、休憩中だったんだけどさッ」
筆記具と革製品を取り扱うモンブランのブティックは、同じ階にある。エリアは遠くもないけどやや距離がある。顔を知らないようでいて、何処かで見掛けた気がしたのもそのせいだろう。
「あ、ありがとうございます………じゃあ、出来ないんですか?」
ドン、と壁ドンされた。それが返事だった。
栗山さんは170はあろうかという長身で、身長差だけ見上げる恰好になる。割と整った顔が、何処かの俳優さんの笑いながら怒るネタみたく、憤りながら微笑んだ。ほんと怖い。そして近い。
「後は自分でどうにかしろ。返品されたら諦めな」
「栗山さんは、何でここに?」
「あの千筆店長(ババア)に頼まれてンの。………つうかさァ、」
「んっ」
今度は頬を掴まれる。
意図せず、身体がびくりと震える。
小動物を弄ぶ猫のように、栗山さんは酷薄に笑う。
「気安く謝るなよ。グループ会長直系の名が泣くぞ。………何で涙目なんだ」
「泣いてません」
「自信だよ。誇りが足りねえンだよ、お前」
優しい人じゃなかったのか。
意味分かんねえ。
「ねえ、ババアって誰?」
「わあ。お早いお帰りで!」
「千筆店長」
バッと身を翻して僕と距離を取って、栗山さんが営業スマイルをヒクつかせた。しおらしくなって、借りて来た猫のように小さくなる。三十代後半くらいの颯爽さで、栗山さんを威圧する。猫の飼い主みたいだ。
「店長、僕………」
「よくやった」
休憩から戻ったばかりの千筆店長が、詳しい事情を何処まで知っていたのかは分からない。多分、これまでの僕たちのバックヤードでのやり取りが聞こえていただけかもしれない。
すぐ失態の説明をしようとするけれども、でも涙が先に溢れてしまった。
バックヤードで気が緩んだのか、決壊した涙が止められない。
「でも」
「本当に凄い」
「返品かもで」
「分かるよ。大先さんが売ったのね」
「売れてません」
返品になる前提だろうし、僕一人の力じゃない。
「泣くな。
良い仕事をした奴が泣くモンじゃないよ」
「………」
泣きたくて泣いているんじゃないんです。
「私がどうにかする。だから泣くな
………と、モンブラン君、休憩時間は大丈夫?」
「げ。ヤバッ! 借りですからね!」
「はいはい。ありがとうね。新入り泣かせるお馬鹿さん」
「泣かしてないし俺! 涙腺緩過ぎ!」
帰っていく栗山さんに頭を下げる。
栗山さんが見えなくなってから、店長が言う。
「君、凄いよ。悔しくて泣ける奴なんて、なかなかいないんだから」
ああ。そっか。
僕はこの涙の理由を知っている。自分の力が及ばなかった、真っ直ぐな痛み。あれに似ている。
サッカーで負けた時の、刺すような敗北感だ。
悔しさを忘れられない僕は、ペンちゃんに縋って言いなりになったんじゃない。誰かに求められたい欲望に、溺れて生きていたんだ。きっと求められるなら、サッカーでもペンちゃんのダッチワイフでも良かったし、満たされたいのは今も変わっていない。
気付いてしまう。
こんなにも欲深い生き物だったのか。僕は………。
「でも、どうして」
悔しさだなんて分かったんだ?
「物言いたげな目をしていたから。それに泣いていたから」
まるで占い師。
「労われたのに否定的な言葉。でもね、大先さん、人は他人への否定的感情ではそう泣けない。なら、貴方自身への否定感情? でもそうだとしたら、失敗だけがそこにあったなら、貴方は失敗をしたことを褒められて気分を悪くこそすれ、泣きなんてしない。
真っ直ぐ成約を願う、純真な販売員にしか、私には見えなかった」
「………!」
羞恥心はもう素っ飛んでいた。
占い師は、次に聖母めいた様子で優しく微笑む。
「それじゃあ、聞こう。引き継ぎを」
この人なら。もしかしたら。
そう信じさせる言霊だった。
「結構」
売上実績表の記入と帳簿確認、在庫数の確認をしながら、僕からの説明を聞き終えた店長が深い溜め息をこぼした。埋められない引き継ぎ帳を開いた僕に、店長が指示を出す。
そして売り場の引き継ぎ帳には、言われた通り、「販売した票品を破壊して海外配送希望」と「次回来店希望日をお伺い中」とだけ書いた。
「あまり、人に言うべきではない、売り場の皆さんにもみだりにお伝えすべきでない、込み入ったご事情、という意味でしょうか?」
僕の言葉に少し目を丸くして、憂いのある面差しで僕を見据える。
「うん。………そう。そうだね。あまり、口外するようなお話では、ないでしょうね。それに基本、お客様のプライバシーを守る事もまた、私たち、百貨店の人間の仕事のうちなの。大事な事だから、胸に留めておいてね」
そっとノートを閉じて、僕は頷いた。心に刻むように。
「………大先さん、クリスマスにプレゼントを贈る文化の由来は知っている?」
「確か、東方の三賢者が主に贈り物を贈った物語、でしたっけ」
聖書では三人の賢者(マギ)が、黄金と乳香(オリバナム)、没薬(ミルラ)を贈る描写がある。それぞれの品物が、天から賜る全て「王権」「神性」「死」の象徴になっている。
「結構。だけど海外ではプレゼントを贈る日は十二月じゃないんだ。
イタリアの場合、これを公現祭といって聖書の記述に則りプレゼントは普通一月六日に渡すことになる」
———そうだけど、違うかなあ。
———普通は一月六日だけど、日本だから十二月に贈るの。
お客様の仰られていた意味がやっと理解できた。それなら、クリスマスと新年の祝いの言葉は一つにまとめられるのは極自然だ。
「お客様のご希望の話に立ち返ると、お客様はお品物を二つに割ることと同時、この日本で買い求められたお品物をわざわざイタリアへ配送して欲しいとご依頼されている。
おかしい話だよ。
彼の地イタリアのトリノは、アウロラ創業の地、本店所在地。アウロラミュージアムだってある。それこそ現地でも買い求めた方が良いお品物を、わざわざ日本で買い求めて送る。空輸で八日は掛かるのに。
イタリアの事情に詳しいようであったし、日常の語彙がすぐに出る。ネットでも使って現地の販売店から買い求めてそのまま送り先に送りつければ早い。どうせ、壊して送るなんて事は、あっちでもお断りされるのは同じ事なのだから。
まあ、何なら、現地に自分で持っていくなり、自分で買って壊して勝手に送れば早い。でも、そうしなかった」
「ご事情があるんでしょうか?」
「ちょっとは私見があるのでしょう? 聞かせて御覧」
「トリノ………ユベントス………FINO ALLA FINE………」
必死で考えてみたけれど、トリノを拠点に活躍するサッカーチームの白黒のストライプや、リーグの状況しか思い浮かばなかった。何これひどい。
「………君はなかなかの馬鹿だったんだな」
苦笑された。否定はしない。
真面目に考えてみる。
「イタリアに行って、直接渡すべきだった。あるいは、自分で壊して海外輸送。………でもそれは共に出来ない。送りたいのは十二月。相手はイタリアなのに、日本の歳時記で送付した。現地でも変えるであろうペン………日本のインク。イメージは炭」
だめだ。分からなくなってくる。
「君は自分であのお品物を選んで差し上げたのだろうか?」
唐突な質問に、僕は今日のやり取りを手繰る。
「お客様がインクは『炭』で、墨汁の墨じゃないってお話をされていて、………その後は、イタリアで、特定の色の軸は避けるよう仰られて………ビスコンティは金属だから却下されて、モンテグラッパはモデル名で却下されて………」
呟くたびに色々と繋がる気がする。
金属軸は真っ二つにしようがない。機材があれば別だろうけど。
モンテグラッパは「幸せ」なんて名前だから却下された。
………お品物は、トリノが送り先。
「お客様は来店当初から、アウロラを真っ二つにして送付する積もりだったんですね」
「うん。そうだろうね。インクの事も含めて、君から特定の商品を案内して貰うことを狙っていたとしか言いようがないんだよ。予備知識がないにしては、余りにも状況と品物が嵌まり過ぎているよ」
「………ええ」
無理難題を最初から求められていたのか。
幸せを否定する、プレゼント。
胸がもやもやとした。
嬉しかっただけ、黒い真珠も、炭の燃え滓に見えてしまう。
「そんな顔をしない。だから言ったでしょうに。あまりお客様のご事情に立ち入り過ぎない。あくまでも、淡々と、粛々と。販売の鉄則。
………だけど、今回ばかりは、うん、言うよ。私からきちんと伝える」
「お客様は神様でしょう?」
暗い気持ちになりながら、僕は父の言葉を託(かこ)つ。
しかしぴしゃりと言い返される。
「お客様は神様なんかじゃない。
我々とお客様が良い関係を築くとき、売り場でお客様は神様であり、我々の仕事の細部に神様が宿るだけのこと。綺麗なトイレにしか、トイレの女神様はいないでしょうが」
「そうですね。汚いところに、神様はいませんね」
「再来店時には、私がどうにかする。だから私に対応させてくれる?
………その時には、沈んだ気持ちに見えるものもあるはずだよ」
「はい」
お客様がいらっしゃったのはその三日後だった。
やはり僕と店長の二人シフトの日の午後。
Q-potのヘアアクセサリーとイヤリングを揺らしながら、海外ブランドのフェミニンなお召し物を揺らし、千筆店長と対峙している。
「どういうこと? お金は払ったでしょう?
あの男の人が出来るって言ってたじゃない!」
「問い合わせは行わせて頂きました。お品物を二つに割るのは、日本総代理店側でも、現地のメーカー側でも、信用に関わるため対応不可との事でした。お力になれず、申し訳ございません」
「何なのよ、それなら品物をこっちで割って送るから」
「構いません。ですがたとえご要望が叶ったとしても、お伝えしたかったことはもう届かないこと、ご存知なのでは御座いませんか?」
千筆店長から近隣の文正の担当者へ問い合わせたところ、東京エリアの文正各店舗でも同じような問い合わせがあったことが、呆気なく判明した。あまりにも理不尽なクレーマーだったので担当者たちは誰もがよく覚えていたらしい。
千筆店長の知り合いの伝手で聞くに、文正以外の高級筆記具取扱店にも、同じ要求をしたクレーマーが現れている。
調べた限り、お客様は東京都内の十店舗余りを、十一月頃から二週間以上も渡り歩いて来ていたようだった。
「巫山戯ないでよ。人の要望も聞けないなんて、失礼極まりない!」
「お客様。焼かれる魔女は、春には忘れ去られるもので御座います」
「嘘。………それじゃあ、真っ二つの意味も、分かったとでも?」
千筆店長の言葉に、お客様の温度感が一気に下がる。
「僭越ながら。間違って認識していたら大変申し訳も御座いません」
「いいです。言ってみて。欲しいです」
千筆店長は深く青い、落ち着きある声で返す。
「日本語の竹炭(たけすみ)を割って、言語を変えて読む………でしょうか」
「こんな事して、馬鹿みたいって思う?」
「思いません。私も人の事です。経験だけはありますから」
経験。この声を呼び水にして、つらつら、お客様が話し出す。
「イタリア留学していました。画家になるために。今はこんなだけど、当時は結構頑張ってたんです。でも芽が出なくて。鳴かず飛ばずで。美術院(アカデミア)時代には個展もやっていたけど、全然で。好きじゃなかったら、すぐに戻れたかもしれません」
乾いた微笑み。
凡その芸術家が出会って来ただろう、暮らしの辛さや、激しい情熱のぶつかり合う時間が、秒速で流れていった。イタリアの空の下、一人の女の子がただ感情のまま走り続けられたらどれだけ良かっただろう。
「イタリアも失業率が高いんです。国籍が違えば、就職も難しい。なのに、就職もしていない人間は卒業後に就労の滞在許可も降りないんですよね。きつかったなあ。
でも潮時だとは思えなくて。
私を愛してくれた人もいて、その人も私を応援してくれた。
それからも必死。もう必死。
『私は私の力で立てる!』って一日も早く思いたくて。夫を顧みなかった駄目人間の言い訳かもですけど………私の思いとは全部が裏腹で、十年かけても認められなくて。焦り出したら、夫にも当たったりして、ほんと、何だかなあ………」
自分で生きられる。
家出した日のリュックサックが、重なってしまう。
全部を緩い恋人ごっこ遊びに終始させてしまった僕と、この人の時間の「質」は大違いだろうけれど、叶えたい願いの切実さに、共感せずにいられない。
自分の生を、この手で直に掴みたい。
たったそれだけなのに、でもなかなか叶えられない、それは僕の願いでもあった。
「家事をしないこと、子どもを作らないこと、芸術活動に一切の口出しをしないことを条件にした結婚だったものですから。
あんなに「君しかいない」「世界で一人」だった私も、そのうち、彼に取っては「昔は好きだった絵」。
私じゃない、そこら辺にいるような、詰まらない女に取って代わられて、おしまい。です。何も持たずに帰国しました。三十過ぎの浦島太郎。何だかなあ………です」
誰も悪くない。
好きな人に、戦いの歴史。
ただ二人が別に生きることになっただけ。
夫が悪い奴だったなら、まだ溜飲も下がったろう。ペンちゃんの暴力に頼って、悲劇に落とし込んでしまった僕みたいに、普通の別れはそう単純にはいかない。
やりきれなくて。
割り切れない。
「でも、後悔、これっぽっちもないんです。これは本当です。夫は本当に好きだったので。
………それだけ、言いそびれてしまって。悔しくて、言えなかったんでしょうね。私。一番言いたいこと、言えなくて。
燃え残った思い、夫だった人が、修理して持っておいてくれたら、全部を許せる………そう思うことにしていたんです。馬鹿みたい」
真珠は「人魚の涙」とも呼ばれる。
長い時間で育てられた綺麗な思い出が、その瞼から降っていくみたいだった。
「イタリアではクリスマスのプレゼントを送り届けるのは、魔女ベファーナであると聞いています。悪い子には炭を与えるのだとも」
「ええ。そうね」
「一説には、主の誕生を祝い損ねた女が、その事を悔やみ、贈り物をするために各地を彷徨う魔女となったと伝えられていますが、別の説では、我が子をなくした狂女が人々に贈り物をしたのが魔女の始まりとも伝えられているそうです」
「哀れな、物語ですね」
「そうでしょうか。素敵な祭日に人の幸いを祈り、喜びを与える。それもまた密やかな喜びであり、癒しです。
ベファーナのように、贈り物というものは相手のためではなく、自分自身のために送る事が出来れば、それが最良の幸いになりましょう」
「クリスマスの奇跡?」
「あてどない贈り物を、今度は今一番大事なご自身に送られては如何でしょうか」
お客様が「え」と唇を開いた。
千筆店長が一本の万年筆を出し、インク壜にペン先を浸し、手渡す。アウロラのオプティマ、ブラックパール。
試し書きの紙にさりさり、文字が走る。今度は日本人向けの極細字、EFペン先だった。
「書きやすい………ですね」
「割り切れないものをそのまま持つのもまた、人の強さです」
文字を幾つかしたためてから、お客様は言った。
「割り切れないまま、私が持ち帰ります」
「そう仰って頂けると確信しておりました」
配送伝票を目の前で破り捨てる。個人情報保護のルール上、そうする決まりになっている。
「………馬鹿なことをしました。すみません」
「お客様に非は御座いません。送り先様に届けられない事が分かれば、それで構わない………それを、うちの者が、配慮に欠ける発言を致しました。どうぞ平にご容赦下さいませ」
「………申し訳ございません!」
僕は事前に言われていた通り、深く頭を垂れた。
「あなたは他のお店の人よりも、すぐに色々な商品を出してくれたから、言い過ぎちゃいました。すみません………」
「いいえ」
そしてブラックパールは、無事、ご自身用にお持ち帰りされることになった。
「僭越ながら」
お買い上げ品をお渡ししながら、店長が微笑む。
「キャップリングにあしらわれた古代ギリシャ模様は、グレカパターンと申します。
この模様は「禍福は糾(あざな)える縄の如し」という意味合いだと聞いております。不幸の波の後には幸せの波が訪れ、不幸、幸せ、を繰り返していくそうです。
貴方の佳きお供になりますように。またどうぞお越し下さいませ」
「ありがとう」
お見送りを終えて、僕は店長に話し掛ける。
「千筆店長、あのさっきの竹炭で読み替えるって………」
「結構。北イタリアのお菓子にティラミスがあるけれど、その語源は諸説あるものの、一説に「私を上げて」。「tirare」引き上げる、「mi」私を、「su」上に、でティラミス。suは英語ならup。このsuは一語で間投詞のようにも使う。Dai suで「さあさあ」とか」
「イタリア語、ご存知なんですね………」
「現地のメーカーの人や、筆記具店に連絡する時に、ちょっとだけ」
「まさか、炭を二つに割る………「su」と「mi」ですか?」
「単純だろう?」
「でもそれじゃあ意味が」
「竹炭インクだよ。「su」「mi」に、竹(take)を加えて英語読みする」
「あ………」
take up me
僕はメモに書いた文字を、日本語で読んでみる。
「『私を選んで』」
「でもそんなの、叶う願いじゃないと最初から知っていた。だからお客様は東京の筆記具店をあてどなく彷徨い、この組み合わせが出来るお店にだけ、無理難題を吹っ掛け続けた。………無碍に断られる。そのためだけに」
伝えたかったけれど、伝えてはいけない、言葉だから。
「お客様はベファーナのように正気だった。自分に課した孤独な旅路の果てに、メッセージは届けてはいけないと誰からも言われ尽くすことで、やっと諦められる。諦めの癒しを求める旅だよ」
やりきれない。
誰も恨めない辛さを、僕は想像する事だけしかできない。でももし恨む相手を持てなかったら、彼らの幸せを、好きな人の本当の幸せを願えばこそ、諦めに到るまでの路は、過酷で寒々としている。
届けたくても、届けられない。
絶望を体感して、やっと終われる、巡礼の旅。
「そこで大先さんは言ってしまった。強い言葉で、「壊れたお品物」だと」
お怒りになるのも、当然だ。
「お勧めを上首尾にできてしまった君に言われたものだから、お気を害されたんだよ。馬鹿者め。興味を引いたのは手柄だがな」
お叱り御尤も。
でも言いざまに優しさの滲む指摘だった。
「矛盾を肯定して、ときに考えてみるのも大事さ。
何せ、君を信用してヒントを与えてくれたのはお客様なのだから」
人の矛盾に、僕はどれだけ目を瞑っただろう。
情けなくなる。
「………」
「どう? 辞めたくなった?」
「いいえ」
ちょっとでも、あの人の幸せにブラックパールが寄り添ってくれたらいい。
僕は強く願った。
「ペンちゃん、だから、帰らないって、決めたんだ。一人で生きて」
最後の挨拶に来たら、二人暮らした部屋は軽いゴミ屋敷になっていた。
「………なら俺の弟を返せ。章(しょう)を返せよ」
僕は答えない。
どうせなら人魚みたいに後腐れなく、消えてしまいたかった。
だって僕は三百年が経っても、きっと諦められない。
可哀想な章のことを。
「あれは、事故だったんだ」
「お前が殺した。章を可哀想だと思うなら、償えるだろ。償いを果たせよ」
酒臭い吐息が、僕の肩に縋り付いて涙を流す。
僕が憧れた人は、もう当時の面影もない。
昔の輝きはもう戻らない。
人魚にもなれない、浦島太郎。
「見捨てられたら、俺、死んじゃうよお、穂先………」
「………ごめんね」
もう過去でも繋がれなくて、明日のシフトに間に合うか、そればかり心配していた。
だからこの時はまだ本当に自殺未遂でペンちゃんが病院に担ぎ込まれるなんて、夢にも思っていなかった。
<了>
2話目に続く。
2本目 CA FP、BP エクリドール
3本目 CR FP、BP クラシックセンチュリー クローム★アウロラ オプティマ 万年筆 ブラックパール Fine(細字) [吸入式] 996-CG-F
★パイロット 万年筆インキ iroshizuku INK-50-TAK タケスミ
★AURORA アウロラ イプシロン・シルバー ボールペン B34
★AURORA アウロラ イプシロン・シルバーキャップ ボールペン B34-CN