晩年の孤独
或いは売場の覚書


3 CR FP、BP クラシックセンチュリー クローム

 春も終わりの頃、桜の花びらが突風にさらわれる。
 たまゆら、夕陽の朱に混じり、桜が幾重にも踊る。
 さながらあたり一面は白い羽毛にでも覆われたようだった。
 僕の視線の先にはあの人がいた。
 風を切って歩く、一人の少年だ。
 年の頃は、少し大人びている六歳と言えば六歳にも見えるし、ともすれば稚(あどけな)い十一歳くらいと言えば十一歳くらいにも見える。
 思わぬ突風に閉じた目を開くと、意思の弱そうな、けれども優しそうな面差しが見て取れた。上質なスーツと短パン姿に見えたけれど、もしかすると本当はどこかの学校の制服だったのかもしれない。僕にはそのどちらかは分からなかった。
 ただ、物凄く整った甘い顔立ちの彼の、その細い腕としなやかな身体にとても似合っているというのは分かった。
 ふっと、その子が桜雨の向こうでこちらを見上げる。
 くりっとした瞳は、けれども僕ではない誰かに向けられていた。
 あ、と思った。
 ばさばさと音がして、大きなハシブトガラスが羽ばたいていく。
 帰る巣を求める緩やかさで、夕焼けの空へと鳥影が解け消える。
 彼が見ていたのは、僕じゃない。

 なのにどうしてだろう?
 短い間の出来事だけれど、全ての出来事は、彼の睫毛の動きまでもが、酷く長く感ぜられた。

 人を「好きだ」と思ったのも、
 話してみたい、と思ったのも、
 これが初めての経験だった。

 それまで白と黒だけだったのが、急に視界に色が映し出される。走った後みたいに胸が不安になって、身体が熱を帯びている。
 行かないでと声を掛けたいのに、僕にはその方法がなく、もどかしい。身体と思いは繋がりたいのに、交わす気持ちはすれ違う。互い違いで、ちぐはぐな自分が、惨めだった。

 こんなところからいつか抜け出せたら、僕は彼と話がしたかった。

 この感情をどう表現するのか、僕はまだ知らない。

 だから、まだ
 怖くて、恥ずかしくて、それでいて切ない
 僕のこの感情にはまだ名前がなかった。



***


 それは二月のことだった。
 肩で息をしながら、教えられた病室の戸を勢いよく開いた。僕が最初に目にしたのは、一人用のだだっ広いベットで天井を見詰めている、病衣のペンちゃんだった。
 生きてた………!
 酷い冗談だよ。と、僕は涙目になりながら病室に運び入れようとした足を、すんでのところで止めた。
 一時は好きだ惚れたで転がり込んだペンちゃんの元から、変わってしまった彼を厭うて逃げ出してしまった僕が、気安く入っても良いものか?
 逡巡したけれども、廊下で突っ立っていたところで埒が明かない。そう思い直して病室のペンちゃんに近付く。
 ペンちゃんは、けれども、誰が入って来たのかを確認する気もないのか、快復していないために喋ることや顔を向けることすら億劫なのか、無言で天井を見詰めている。その表情からは一切の感情を読み取ることが出来なかった。
 ハーブやドラッグの恍惚や陶酔が抜けそうで、けれども虚脱や現世の苦しみを思い出してしまうより少し前の、あの「無」の表情にそれは良く似ていた。まるで意識が透明にでもなっていて、そのまま空気にでも溶けて消えてしまうんじゃないかという、あの目が、僕は昔から凄く苦手だった。
「………」
 引き戸が閉じられる音を背に、数歩だけベットに近付く。やっとの思いで口を開いたけれども、口は乾燥し、かさつく喉から出たのはずいぶんな挨拶だった。
「なにやってんの」
「ほさき?」
 保存状態の悪いセルロイドの万年筆みたいに、ひどく窶れた彼は笑う。
 その状況に似合わない朗らかな顔に、僕の緊張感は増して、次の言葉には芯が宿った。
「自殺未遂なんて、どうして………」
「おまえがくると、おもったから」
「なんなのかな………何で、そんな馬鹿なことを」
「ばかは、おまえだ!」
 ペンちゃんは僕の元恋人だった。
 その前の間柄………男友達としては、小学校からの付き合いで、僕たちが中学生の間もその関係は続いた。
 高校生になり、ある時、ペンちゃんの弟の章君が亡くなった。
 その後、僕たちは恋人同士になる約束を交わして、僕は実家を出て、二人で同棲を始めた。大学に進んでからも、僕たちは一緒にいたけれども、ドラックと酒に溺れたペンちゃんに付いていけなくなった僕は、二十一歳の十二月、彼の元から逃げ出した。
 僕が逃げ出してから二ヶ月。
 心配した家政婦さんが訪なったマンションで、腕を切った姿で見付けられたペンちゃんは、病室に横たえられ、今に至る。
 いつもの僕が知る、暴力的な彼の姿はそこになかった。気が向けば僕を傷付け、いたぶり、憂さを晴らしていたペンちゃんは、利かん坊の子どもみたいに声を張る。
「知能指数がひくいおまえに、ものうりはお似合いだろうけど、むりだ………わるいことはいわない。おまえさ、働いてなにがしたいわけ? 面接してやるよ………。言ってみろよ。なんのために働こうなんておもったわけ? おまえは俺につくすより、だいじなことでも、あるのかよ? ………なあ?」
 ペンちゃんは憎しみを込めるような目で泣いている。
 僕が出て行った日の台詞が、恨めしそうに僕の足にまとわりつく。
 この涙に、僕は弱かった。
 激しく傷付けられた日も、血だらけにされた日も、酷い裏切りを受けた日も、僕はこうしてペンちゃんに泣かれるとすぐに彼を赦してしまえた。
 求められる………心の弱い部分を犯す脳内麻薬が、その涙にはこれでもかという位に含まれていたから、どんなにボロボロでも僕はやって来れた。好きでもない彼のことを愛し続けてしまえた。愛なんて言葉で片付けられないくらいに、甘やかしてしまえた。
 けれどその効果も切れた。
 ここにいるのは取り残された馬鹿二人だった。
「僕は、僕のやりたいことのために、今、頑張ってるから、帰れない」
「やりたいこと?」
 僕を産み、若くして死んだ僕の母は、大量の万年筆を僕に遺していった。
 父と交わしたという、僕を産む条件………毎日、万年筆を贈って欲しい………そうして贈られた大量の万年筆たち。
 その真意を、僕は知りたかった。
 二十一年の人生で辿り着けなかった真実が、万年筆売場で働いていれば、いつかは手に入るのではないか………僕はそんな甘い希望を抱いていた。
 二月の陽射しを受ける、病的な皮膚が罅割れたように見えた。それは嘲笑うように口角を歪ませていただけだと、冷酷な言葉を聞いて僕はやっと気付く。
「親の、万年筆か? それが分かったら、だったら、何なんだ。そんなことに一体、何の価値がある? 自己満足を満たすことが、どれだけの価値になる?」
 勘が鋭い。
 酷薄な笑みはペンに絡み付く蜘蛛のように、柔らかい羽根を絡め取る。
 僕をコントロールさせたら、彼の右に出るものはいないだろう。
 まるで僕の飛び立ち方さえも予見していたかのように、言葉で編まれた蜘蛛の巣が、指一本さえ動かさず、僕の足をすくませる。
 自己満足。
 一月、カランダッシュの万年筆を買っていかれたお客様が、思い起こされた。
 あの場ではああ言って、気にしない風を装ったけれど、僕はまだあの時の対応を後悔していた。自分は間違っていないとは頭で理解をしているけれども、間違っていないことが正しいとは限らない。
 ペンちゃんは僕にあった出来事を知らないだろうに、その言葉は的確に僕の過ちを突ついていた。
 僕の動揺に勘付いたのか、ペンちゃんはまだ諦めていないように続ける。

「首切り社長に、頭の弱いぼんくら息子………そんな風に言われているって、言っていたじゃないか」

 痩せたセルロイドのペンから、砕けたゴムを吐き出すような言いざまだ。
 もう何年も前に乾いたインク汚れは、まだこの手を汗ばませる。
 父の仕事に関わる人々が家に来ていたことがあった。
 父がいる間や、僕がいる場では決して言われない讒言も、僕たちがいない場であれば、お酒の力も手伝い、多少は会話に差し込まれる。
 僕は間が悪かった。
 そういう、本人達からすれば他愛ない、仕事の愚痴の延長にある悪意を、トイレから戻ろうとした廊下で聞いてしまった。
 今だったら、彼らの気持ちは分かる。
 世の中は不公平だ。経営者の家に生まれれば、親の会社を継ぐ者もいるだろう。政治家の家に生まれれば、親の政治基盤を継承することもある。資産家の子どもは資産を分配される。
 能力や才覚だけを持ってして上を目指した人々には、それがどう映るのかも、理解できる。
 でも大人になる前の僕には、とてもじゃないけど耐えられなかった。
 幼いながらに、彼らの陰口を父に伝えることの危うさも理解していた。父には言えなかった。父の会社の役員さんたちの子どもたちや、部長や課長の子どもたち、関連企業に連なる人々の家族とも、顔見知りだ。色んな人の人生が、その当時の僕を更に苦しめた。
 それで僕は逃げ出した。
 この幼馴染みの、弟を失った寂しさに、付け込んでしまった。
「でもさ、バイトだし………僕はもう無関係、みたいだから………」
「そんな人生、何が楽しい?」
 ベットから半身を起こし、グラファイトの瞳を鈍く光らせる。逃げ出せば良かったのに、僕の足はその場に繋がれた罪人のように動けない。
 旅行に行こう、何か食べに行こう、好きな物を買ってやろう、免許を取りたいとか言ってたよな、俺が車を買ってやるよ、それでさ、何処かに行こう。
 まくしたてられた言葉に、目眩を覚える。
 爛々とした瞳孔は、一種の興奮状態にあるようだった。人を支配できると悟った人は、喜びを抑え切れない。本心を隠しもせずに、まるで全てが解決したとでも言わんばかりの笑顔を向けられる。僕の言った言葉も、あった出来事も、全てがなかったことにされたみたいだった。
 言葉の通じない生き物を前に、怖さで皮膚が粟立つ。
 力強く手を握られる。
「俺が悪かった。もう、痛くしたりしない。約束するよ。俺はお前じゃなきゃ、ダメなんだ」
 病衣の下に覗いていたネックレスチェーンを外す。
「これ」
 ペンちゃんが僕の手に握らせたのは、家に置いて来たはずの、僕のペアリングだった。指に嵌められそうになるのを逃げようとしたら、力尽くで握らされる。
 ペンちゃんの左手の薬指にも、僕のリングと同じ、純イリジウム製のペアで百万円くらいしたリングが嵌められていた。
 リングを投げ返そうとする僕の腕が、きつく掴まれる。痛みに身体がすくむ。ぎりぎりと軋みを上げる程の力が、痩せた枯れ枝の腕にまだ残っていたのかと、身を固くした。
「お前は俺に返すべきものがあるだろ?
 俺に返さなくちゃ。
 さもなきゃ、償うべきなんだよ。そうだろう?」
 彼の弟である章君は、僕のせいで死んだのだと、ペンちゃんはまだ信じている。
 悪いことをしたと、そう思わなかった日は一日としてなかった。
 だけど………
「おい。用事が済んだのなら、早く行くぞ」
 背後から描けられた、低い声に振り返る。
 スリーピーススーツの上に、丈の長いコートを着た170はあろうかという長身の男が、引き戸を開けて立っていた。整った目鼻は、悪質なクレーマーを見下げたように眉を険しくしている。
 肉食の動物にも似た、しなやかな眼でペンちゃんを睨むその人は、革底の革靴を鳴らし、病室を無遠慮に歩くと僕の腕を引っ掴み、無理矢理引っ張る。
「そいつ、誰だ」
「栗林さん」
 虎を睨む龍のような眼光を切り返し、あくまでも僕に話し掛けるペンちゃん。軽症の彼に不釣り合いな広い病室で、僕の間抜けな答えだけが響く。
「元気な病人の相手をしている場合じゃないだろうが。行くぞ。仕事を放り出してるだろう、君は。すまないね。こっちも仕事だからね。………行くぞ」
 ほとんど略奪される恰好で、引っ張られて病室から解放された。


 病院の外に出て、二月の曇天の下、公園のベンチに僕を座らせる。自販機から買って来た暖かい珈琲を僕に放り投げた。飲めということなのだろう。
 缶珈琲のプルトップを開けた栗林さんは、長い溜め息をつきながら、隣に座った。
「百二十円だ」
「え、お金取るんですか!?」
 つい吹き出す。
 さも当然のように僕から金を取った栗林さんは、モンブランのウォレットに小銭を入れる。
「なんだ。ブランドの販売員が金持ちだとでも思ったか」
「年上なのに………」
「そうだな。俺は二十八だ。だが販売員は自社製品を買わされる。うちはそこまでじゃないけど、服飾ブランドなんて来期の商品を上期と下期で一気に買わされるから、社販割引が利いても賞与が吹っ飛ぶ。服装規定も髪型も決まっているところもあるんだぜ」
 多種多様なブランドの販売員がひしめく百貨店だからこそ、一店舗隣には別のルールが有り、別の世界が広がっている。僕の所属する筆記具売場では、取り扱いブランドを購入しても良いけれども、していないことで問題になることはなかった。
 ハイブランドを販売する人たちの抱く「誇り」は、身銭を切ったブランドそのものへの愛でもある。そう思うと、前に言われた「誇り」の意味が重みをもって感ぜられた。
 文正百貨店の筆記具売場に勤めているアルバイトの僕と、文正に入っているモンブランのブティックに勤めている正社員の栗林さんの唯一の接点。それは入店当時、助けて貰ったことがある。という、ただそれだけの関係に過ぎない。
「あの時は、ありがとうございました」
 言うタイミングを逸していた感謝を告げるも、栗林さんはすげなく「別に。お前のためじゃねえからな」と無表情に珈琲を飲む。
「店長に言われて、来てくださったんですか」
 僕が行く場所を知っている人間は、そんなにいない。実は心配事もあるため、店長にも少しだけ僕の元同居人の話をしていた。店長にだけ、何かあった時のために僕が本当に行く場所をお伝えしていたので、それをそのまま栗林さんに流したのだろう。
「悪かった。変なとこに横入りした」
 深々と頭を下げられ、恐縮する。
「ありがとうございました。助かりました」
「そうか」
 ホッとしたように、相好を崩す。
 飄々としているけれども、この人なりに気を遣っていたらしい。
「僕たちのことは店長から伺っていましたか」
「知らない。うん。俺は病院の〜号室にすぐ行くように、とだけ指示された。本当はあの人、自分で来るつもりだったらしいが、今日は君が休むから店を閉められないしで俺にお株が回っただけだろう。別に俺は詮索したいとも思わない」
「変なところをお見せしました」
「いいよ。別に」
「あの、他の人には」
「話すような友達いねえし。文正に。何より、公私を混同するような真似、俺は好かん。生きていれば、誰にだって色々あるさ」
 繊細さに欠けるようでいて、慮るところのある人だったのか。この人への印象を改めなければならないかもしれない。
「すみません」
「何なら誓約書を締結しても構わん」
 真面目な表情で言われて、ちょっと笑いそうになる。だが顔は大真面目だったので、今度は場を和ませるジョークというより本気の提案だったらしい。
「結構です」
「ふうん。そうか」
 最初は怖い印象があったけれど、ぶっきらぼうな言葉足らずの中にも、この人なりの考えがあったのだろうか。
「僕たちのこと、聞かないんですか」
 我ながら、存外に傷付いていたのだろうか。栗林さんに聞いて欲しいなんて、烏滸がましいにも程がある。
 だが僕の焦燥をよそに、栗林さんが先鞭を切った。
「………珈琲も冷めたな。少し付き合え、御曹司」
「御曹司じゃありません」
「じゃあ、クソガキか」
「あんた、失礼だな。大先です。大先穂先」
 モンブランの「レジェンド」オードトワレが仄かに薫る。もうサンダルウッドが濃厚なラストノートに差し迫っていた。
 空き缶を捨てて歩き出す栗林さんの後ろに従って、十分ほど住宅街を歩いて行く。
 何処に向かうのかと思っていたら、やや建物が古めかしいライオンズマンションに着いた。病院の近くに住んでいたのか。
「ここ、おうちですか」
「茶くらいは出すが」
 展開について行けずに困惑して問う。
「いや、でも、ご迷惑じゃ」
「で。来るの、来ないの?」
 エントランスオートロックにキーを翳し、自動ドアを潜りながら聞かれる。
 一人でずんずん歩いて行くのを追い掛けて、結局、部屋に入ってしまう。
 高校生以降、ペンちゃんの束縛が激しく、人の家に入った経験が少ない僕は恐る恐るお邪魔する。
「お一人で住まれているんですか」
「お一人様だ。気楽に生きている」
 一人暮らしするにはやや広い賃貸は、家具が少なく、男の一人暮らしにしては綺麗だった。雑誌は雑誌専用のラックに収められ、全体にモノトーンで統一されていた。白と黒の二色に、栗林さんだけが光って映えるような上品なコーディネートだった。
 掃除も行き届いているのか、部屋の空気も爽やかだ。
「僕なんか入れて良かったんですか」
「何だここまで来て。嫌なら帰れ。別に引き止めはしない」
 マリアージュフレールのマルコポーロフレーバーだ。出されたポットが放つ、懐かしい香りに、つい「マルコポーロですか」と訊ねてしまう。
「客用だよ。たまの贅沢だ。変か」
 仏頂面で問われる。人様にらしくないと思われそうな趣味を持っていることを、気にしている風に見えて少し笑えた。
「是非頂きます」
「いや、今この紅茶の匂いで思い直しただろ、それ」
「………僕、病院にいた人と一緒に住んでいて。ていうか、お付き合いしていたんです。割と最近まで」
「紅茶啜りながら、そっと話題を軌道修正してるが、かなりの力業だぞ」
 警戒していた相手だったけれども、もうここまで見られて言い逃れも阿呆らしかった。
 言い辛かった事柄だったが、この人になら言ってしまっても良いかな、とも思えた。
「だから全然、趣味じゃない男の人にも、何て言うか、距離を置かれることもあるんですよ。変に気にされるっていうか………家に上げてくださるなんて、よもや思ってもみなかったというか」
 作り笑顔をしてみるけれど、気分の悪い思い出が脳裏を掠める。
 同性だから全員に興味があると認識されるのは、気持ちが悪かった。
 かと言って、こちらが傷付いていることを敢えて伝えたとしても、そういうことを言う人には、本心を理解して貰えないのも理解していた。
 ………人様にこういうのを明け透けにしておきながら、対等に見てくれというのも、烏滸がましい話かもしれないけれど。
 僕の気持ちを知ってか知らずか、呆れたように栗林さんは鼻で嗤う。
「誰がソッチとかコッチとか考えて、線引きする奴、頭沸いてんだろ」
 売場とは別人めいた声が朗々と大太刀を振る。
「顔が中途半端、脳味噌も中途半端な、人との線引きが苦手な馬鹿が、そういうこと言うんだよ。人を見下さないと人と話せない、馬鹿共がな。………人にモテない馬鹿共の身勝手な妄想なんざ、真に受けてんじゃねえよ」
 竹を割ったような性格だったのか。
 それが分かっただけでも、今日話せて良かった。
 紅茶を啜ると、嫌な気持ちが空気に溶け消える。
「そう言って貰えると、嬉しいです」
「は。………なんか調子狂うな」
 ほれ食えと差し出されたのは、文正にも入っているゴディバのグランプラスだった。
 ダークブラウンのパッケージに30粒入りは、結構高かったはずだ。
「こんな高価なもの」
「貰い物だし、貰っても食べる人ももういない」
 二月と言えば、バレンタインの贈り物かと勘違いしてしまいそうだけれども、どうもそういうプレゼントではなく、しかも本人は別に好きというでもないようだったので頂くことにした。
「処理して貰えたら良かったよ」
「勿体な………あ、そう言えば、そろそろバレンタインデーでしたね」
「生憎と、自分はそういう相手とは死別していてね。こんなイベント事とも縁が切れたのに、こういうものだけが送り届けられるから、嫌になる」
 死別。
 そして、既婚者だったのか。
 栗林さんの視線の先には、結婚式の写真が小さな額に収められて飾られていた。
 「いや、だからさ、なんてーかな」
 ばつが悪そうに栗林さんが額を拭う。顔を洗う猫みたいだった。
「話してもいいんですか?」
 聞くなよな、と肩の力が抜けたように眉根を寄せた。また、気を遣わせていたらしい。それも本人がいつもは遣わせないような、特殊なタイプの気遣いを。
「色々経験してるから、話しやすいことから話してみたら。こっちで吸っていいか」
 頷きを返すと、スーツを脱いで、電子タバコにカートリッジを詰める。着替えてからスイッチを押したのか、キッチンの換気扇の回り出す音がごう、と聞こえる。エアコンからはほんのり紫煙の残り香がした。
 いつも消臭剤をきっちりスプレーしているのは、過去の結婚生活の名残だろうか。
 部屋に薫る紅茶と電子煙草とモンブランのオードトワレが混ぜ合わさって、優しくて寂しい、供養の香りがしていた。
 最初は訥々と、相槌を貰いながらこれまでのことをかいつまんで話し出した。

 料理を作りに行く。その名目で僕は彼ら兄弟の家をよく訪れるようになっていた。
でも一番の理由は家庭料理を知ってもらう事。あくまでも作り始めてから食べ終えるまでが僕の領分だった。
 確かに練習後で疲れてはいたけれども、それ以上に自分の憧れた人のために何かできることがあることが誇らしかった。純粋に誰かのために料理をしたい気持ちから僕はそのまま週に2~3回くらいのペースで通い続けた。忙しいときにはそのペースが少なくなったりもしたけれど、出来るだけ減らさないように努力をし、思ったよりも長く、緩やかにその関係は続いた。
 年の離れた弟というものを持ったことがなかった僕は、自分にはないものを持っている兄弟の輪に入ったかのような錯覚を楽しんでいたのかもしれない。
 サッカーのチームには年下の下級生子たちもいたけれども、家族みたいに仲が良いのであって、実際には試合や練習の間だけの関係で、プライベートではやはり学校で年の近い子たちの方が距離感が近い。
 当時の僕は、年齢の割に人の言葉が人の中で全く違う誣言に書き換えられてしまう事を、いつも恐れていたからスポーツの世界にのめりこみたかった。でも現実には人間同士がかかり合いになれば、人の意思によっていつ何時でも人の言葉は書き換えられ続けて、うらやんだり、疎ましがったりする。スポーツは寧ろ人と人との争いだからこそ、それが顕著だということに気付き始めていた。
 気づくのが遅かった代わりに、目を瞑ることも早く覚えた。嫌だと思いながらも考えない強さも身につけていた。弱いくせに。
 彼に会いに行くとき、いつも少しだけ誰かに後ろめたかった。良いことをしているはずなのに。
後ろめたい気持ちの理由は、多分、自分の本心が見透かされない安ど感だ。今ならわかる。
 それに、章君は明らかに普通の子たちとは別世界のレイヤーにいて、その存在が奇異であればあるだけ優越感を満たした。
 自分にはないものに、なってみたかった。という、優越感だ。
 父の仕事により、人の裏側を、否が応にも見せつけられてきたからこそ、言葉のゆがめられない世界にいる章君に安心感を抱いていたのもあるかもしれない。
 毎日が発見の連続だった。これまでと同じに考えられていたものが、全く違う風に見えるようになる。妄言や錯覚の類かもしれないけれど。
 例えば彼が「37」と云ったときには、空腹を示す。そして「29」はお手洗いについて示していた。いくつかの数字のまとまりもまた一つの意味を形成することがあったから、これを読解していくのも、他の人には体験できない特別な経験だった。自分の立場を忘れられる瞬間。誰かの悪意の対象でなくなる瞬間。これが何物にも代えがたくて、気づいたら数年が経過していた。
 その間、僕は家族と行事を過ごすよりも彼らと一緒に季節の行事を体験することが普通になっていた。
 自分にとっては、家族と過ごす行事が孤独な時間になっていたように、兄弟もまた同じように孤独な時間を味わっていた。だから彼らの家で季節の行事を食卓に広げてみたり、部屋に心ばかりの飾りつけをしたりするようになってから、ギブアンドテイクの関係を超えて、一種の家族めいた関係が出来上がっていったのも自然の成り行きだった。
「クリスマスとか年末年始も?」
 不意に問われ、首肯する。
「一緒でした。僕の父は催事のある日こそ、誰よりも忙しくかったので、年末年始も返上でしたから」
「編(わたる)君と章(しょう)君の家にも、何らかの、家族では過ごせないような事情があったのか?」
 あの店長が使いに寄越したのは、何も、栗林さんが古くからの知り合いだったから、というだけでもないようだ。
 真っ直ぐ射抜くような視線に緊張の糸を感じる。でもそれは店長の千里眼めいた眼差しに似て、素直な第三者の冷静さを帯びていた。
「ペンちゃ、編君たちの両親は、多忙な医者同士の夫婦だから家に寄り付かなかったというより、家族関係が崩壊していて、あの家の他に帰る場所をそれぞれ持っていたみたいでした。イベントごとの日も、なんでかあの家では何かしたりはしない決まりになっていたみたいで」
 季節の消えた家。
 気温の上下だけが淡々と流れる。
 想像したのか、栗林さんは絶句していた。
 満ち足りている風に見えた、ペンちゃんの裏側にある真実に、当時の僕も同じ気持ちになった。
「………逆にイベントごとがある日こそ病院には人が足りない、そういう建前で家に戻らないのが普通になっていたらしくて、「年末年始は逆に誰もいない、忘れられた家なんだ」って、いつだったか、言っていて。ハウスキーパーさんも年末年始は来ないので、僕みたいなのが逆に過ごしやすかったんです。泊まったりもして、楽しかったなあ」
 親族の家みたいに気心の知れた人の家で、夜更かし遊ぶ経験を、僕はもう二度と味わえない。覚悟はしていたけれど、その事実が久し振りに手先を冷たくした。
 楽しかった思い出は、ふっと湯気の向こうで空気に溶けた。
「それは良い事をしたな」
 良い事?
 憮然とした僕の様子にも動じず、栗林さんは「そうだろう?」と新しいカートリッジに手を伸べる。
「結果はどうあれ、誰かとイベント事を共有出来るのは、有り難い事だ」
 本当にそうだろうか?
 ここまでの話だけならば、僕はきっと振り返りもせず同意できた。
 でも今は無理だ。
「6年、です」
 6年、僕たちは3人で一緒に過ごしました。
 栗林さんは無表情で電子煙草の煙を吐き出す。
 彼もまた言葉を引き出す間が上手かった。
 店長に、良く似ている。
「でも僕と章君が一緒に過ごした時間は、短いんです」
 声が震えるのを、お茶を飲んで抑え込む。
 6年もあれば小学一年生は卒業する。
 中学生は高校を卒業する。
 長い6年のうち、僕がいたのは一週間の半分にも満たない、一日のたったの数時間。
 年末年始や夏休みは長く一緒にいたとしても、それだって僕に用事があればその用事を優先していた。その点、何も変わらない。ペンちゃんたちに全てを与えながら、何一つ与えてくれなかった両親と、僕は多分似ている。
「僕、父親が嫌いで」
 ペンちゃんも同じだった。
「家に帰ると誰もいないのに、僕は何不自由ない生活をしている、裕福で恵まれた子どもなんです。確かに飢えないし、欲しいものも手に入るし、好きなことはやらせて貰ってましたけど、家族ごっこをしているうちに、ああ、自分って、そこまで大事な子どもでもなかったんだなって、自覚がどんどん強くなるんです。傷の舐め合いで、ほんとの家族との距離を思い出しちゃうのに、通い続けてて………」
 酷い笑顔が、顔をひりつかせている。
 悪い顔をしているのだろう、栗林さんは冷たい目で僕を睨んでいた。
「家には父親がたまに帰ってきては、僕の出来の悪さに辟易して、色々言われるんです。しっかりしろって。遊んでないで、将来の事を考えろって。小学生相手に。
 家には父の知り合いとか、会社の人も来ちゃうから、ほんと、地獄でした。
 学校にいたらいたで、ペンちゃんと親密になり過ぎたせいか、やっかみから色々言われるようになってて、楽しかったはずのサッカーでも、やっぱり同じような状況で。居場所は削られているの、分かっていても、離れられなくなってて」
 依存していただけだった。

「あー、皆、死ねば良いのになあ、って。
 毎日、作り笑顔の下で、思ってたんですよ。
 親に似ない、残念過ぎる、ぼんくら息子も」

 美談にするには、悪意が過ぎた。
「それくらい、皆の事が嫌いで、心を許せたのが、編君と章君だけだったから、僕は中学校の頃に、彼と付き合い始める事にしたんです」
 無言を貫いていた栗林さんが、思わず声を上げた。
「それだけの、理由でか」
「求められたのに、拒んだら、僕はもうどこにも居場所がなくなっちゃうじゃないですか。じゃあ、他に、どうしたら良かったんですか?」
 周囲にも交際を宣言する、「正式なお付き合い」が始まったのは十七歳からだったけれども、実際は中学生の頃から、そういう関係は水面下で始まっていた。
 言い換えれば。
 そもそも周囲に告げるような恋愛関係にする気など、はなから、僕にはなかったのだ。

 僕の過去には、周囲の知る真実とは、少し違う裏がある。

 中学生の僕は、足を痛めてサッカーを辞める。でも真実の裏側は、故意だった。僕は僕の意思で、学校の階段を転げ落ちて、足を壊したのだ。それも骨がしっかり折れるよう、念を入れて。
 才能がないのは小学生の時には気付いていたのに、自分から逃げるのは恰好悪かったし、状況のせいに出来たから。
 ペンちゃんも「なんかいーや」の一言で辞めたけれど、その裏側は僕の監視も兼ねたデートがしたかったからだ。
 僕の父との諍いは中学時代に激化したけれど、その裏側では、好きでもない奴とイチャこき倒す姿を敢えて父に見せ付けたがる、不良の僕が笑っている。
 言われ続けた父からの叱責に、僕は僕の全身全霊で答えてやった。気が張れるかと踏んだけれども、少しもすっきりなんてしない。当然だ。僕は僕の願望を一つも叶えてなんていないのだから。
 それで家にいたくなくて、学校の図書館で必死に勉強したのも、ペンちゃんとの交際が続けば、いつかはそのもやもやとした気持ちが晴れるかと思ったから。
 根底にあるのは復讐と自分本位。
 ぱっとしなかった僕の人生が、変わるかもしれない、期待。
 皆、死ねば良いのに。
 が叶わないから、安易な方を選んだ。
「笑えますよね」
「笑うもんか。確かに悪意もあっただろうが、欲得ずくなのが人間だろ」
 すっとカートリッジを手に取ったが、電子煙草の本体には入れず、テーブルに置く。
 中に詰まっている煙草のカスを振り落とし、呆れるとも、哀れむとも、切なむとも取れる、曖昧な陽射しの向こうから僕を伺い見る。
 いつの間に切ったのか、換気扇の音は消えていた。

「欲得だけなら良かったのに、章君が亡くなる原因を作ったのは、僕以外には、有り得ない」

 一緒の高校に行っても、僕たちの関係はずるずる続いていた。
 当たり前のように互いの家に泊まり、遊びに行き、そこまで深い仲になったにも関わらず、章君と僕が会うのはこの時まで週に二、三回が精々だった。
 本音、僕と章君の関係は「お兄ちゃん」たる編君の取り合いめいた状況になっていた。サヴァンの章君が兄の介助を必要としているように、僕も公私共にペンちゃんの助けありきで生活すのが当たり前になっていた。
 最初こそ、自分の意思で飛び込んだくせに、中学では誹謗中傷の的になり、だったらと、いざ高校でペンちゃんとのことを隠したら、今度は孤立をしていた。
 うわべの理解を示す友達だとか、好奇心の声掛けはあったけれど、ペンちゃんがそれらを秘密裏に僕から遠ざけ、ときには僕に近付く者へ間接的・直接的に制裁を加えることさえ厭わなかった。
 隠れて友達を作ろうものなら、烈火の如く激怒し、いつもの「お前は俺なしでやっていけないだろ」が始まってしまう。面倒事のマッチポンプみたいな僕たちには、自然と誰も近付かなくなった。
「もう、ストーカーじゃないか」
「そうですよ。悪質でした」
「何で離れなかったんだ」
「僕が一人になれば万事は丸く収まりましたから」
 僕もいつしか疲れて、ペンちゃんとの関係を隠しながら、一人の時間を味気なく過ごした。
 急激に冷める僕に、激しくなるペンちゃん。
 この繰り返しで、気付いたら、僕もたった三人しかいない歪んだ王国の一員になっていた。
「どうして、あいつに本当のことを言わなかったんだ」
 好きではない、と。
 呆れ声には憤りも混じっている。
 それでも嘘偽りより真実を伝えたかった。
 どうしてだろう、この人にだけは知って貰いたかった。

「学校とか、友達って、いつか卒業しますよね」

「時間が経てば終わるから、終わらせる必要を覚えなかった、と?」
 プレッシャーで圧殺されそうなのに、口は心と裏腹に、問いに答える。
「小さい時の友達って、ほとんど疎遠になって、終わりますよね」
「学校のためだけ、誰かのためだけに………そこまでしたのか」
 ほとんど自問自答するような、解答を咀嚼するような言様だった。
 人のため、誰かのため。
 でもそれだけ。
 僕には、自分というものがない。
 今でこそ目標らしきものもあるけれども、それだってふわふわしていて、実態も茫洋とした感情に過ぎない。
「僕、人の心が分からないんです」
 父のことも。
 ペンちゃんのことも。
 そして、章君のことも。
 最初こそ、知らないからこそどうにかなると、恋を甘く見積もっていた。
 このチョコレートよりも甘くて、苦い、酸っぱい誤算だった。
「なら、クソガキで十分だな」
 しょうがない子どもを見るみたいに、冗談めかして小さく嗤われる。近所の子どもが悪さでもしたのを、笑って許す、お兄さんを連想する。何だ、この人。
 目頭が少し熱くなる。
「ガキって言わないでください。二十一です!」
「どうせ童貞の癖に何を言う。人の心が分からない、だ? 人の心が分かってたまるか。そんなことも分からないくせに、分からないだと。人にそんなことも教えられなかったお前は、クソガキだと言っているんだ。馬鹿か、君は」
 笑われる。猫の跳躍みたく、軽やかに、鷹揚に。
「もうそれで………いいです」
 まだ泣くな。
 僕は意思で涙を堪えた。
 ああ。
 僕は店長とか、栗林さんみたいな誰かに、もっと早く会いたかった………。
 辛くて、心許なかった、昔の僕の傍に。
 消えてしまいそうな彼の傍に、こんな誰かがいてくれたなら、結果はもっと違っただろうか?

 でも現実の僕はクソガキで、高校に進学してからは章君を疎ましく感じるようになっていた。
 その頃には僕も章君の前でも恥ずかしげもなくお兄ちゃんと付き合っていることを明け透けにするようになり、大事なお兄ちゃんが僕を優先しているのも当然のこと、むしろ迷惑で困っている、くらいの気持ちになっていた。
 章君は章君で、兄であるペンちゃんに嫌われてしまったら、それこそ身の破滅とでも思っていたのか、僕のためにおかしくなっていくペンちゃんにも、小さい頃と変わらず、笑顔を向けていた。
 忘れもしない。
 四年前。
 十七歳の二月。
 別れは突然だった。
 高校の授業が終わり、帰宅部だった僕たちは連れ立ってペンちゃんの家への帰路を歩いていた。サイレンの唸りが僕たちの進行方向へと走り抜ける。最初は「どこかで火事かな」「冬だしなあ」くらいの気持ちだったが、様子がどうもおかしい。
 嫌な予感がした。
 僕たちが走ってマンションへ向かうと、そこには何台もの消防車と、非難したのであろう、マンションの住人達が何十人と不安そうな顔をして、ある階を見上げている姿が見て取れた。火災の現場は、ペンちゃん兄弟の住む高層階マンションだった。
  消防車は何台か敷地内に乗りつけていたけれど、梯子車の届かない階からの火災なのか、梯子は中途半端な位置で固まっている。他の一台はホースをマンションに誘引しているように見えたが、水が通っているのか、消化活動や被害状況などは一見して掴めなかった。マンションそのものは外観からして燃えてはいなかったように見えたし、煙がもうもうとしてる印象も受けなかったけれど、警報の音や人々のどよめきが、不安感を煽った。
 嫌な想像が、交わした二人の視線の間で、焦げ臭い匂いを放つ。
 章君の安否を確かめるためにペンちゃんは家の電話に発信しながら、顔面蒼白になりながら人混みに走り寄り、上の方を見上げる住人を捕まえる。
 一人目は上の方からだと答え、何階から出火したかまでは、と答えた。僕も手近な住人を捕まえるが、答えは要領を得ない。ペンちゃんの捕まえた二人目は、上層階からの出火みたいだと聞いたと答える。人混みの中に、章君を探すも、やはり、いない。非常時なら外に出ることもあるの。とペンちゃんに聞くも、分かんねーよ、とだけ返される。
 やっとの思いで消防隊の人を捕まえ、最上階は無事か、全員避難できたのか?と問うたが、消防隊の人は確認中だとしか教えてくれなかった。というよりも、現場の状況がまだ外の隊員に降りていないようにも見えた。
 これは後から知ったことだけれど、幹線道路で起きた交通事故のせいで、道が塞がり、駆け付けるまでに時間がとても掛かったらしい。それも無謀な追い越し運転による衝突事故と、その事故のために連鎖的に起きた、車二台を巻き込む追突事故だったという。
 その上、駅に程近い立地が仇となる。マンションの周囲の細い道には平日は特に路上駐車が多く、このときもその路上駐車のせいで、消防車の敷地内への侵入が阻まれ、到着は遅れに遅れた。つまり、このときにはもう、通報からかなりの時間が経過していた。
 この火事の後になってから、警察や地方自治体はこのあたりの路上駐車の取り締まりを強化するようになったと聞いたが、そんなの、後からやってもこの時の火事は贖えない。
 もう、中に行くか。
 兄の顔になって、ペンちゃんはマンションのエントランスに駆け込もうとした。だが当然のように消防隊員に制止される。
「何をしているんですか、避難してください」
「家族が中にいるかもしれない、退いてくれ」
「二次災害にもなりかねない、絶対にいけません」

「俺は死んでも構わない、あいつが死ぬのだけは絶対にダメだ!」

 忘れもしない。悲痛な叫び声で、もう半狂乱だった。ここまで混乱を極めたペンちゃんを、色々な体験を一緒にしていた僕でさえ、見たのは初めてだった。
 ちらと視線を周囲にやると、マンションの外でペンちゃんを取り押さえている消防隊員以外は忙しなく走り回っている。一分とは言わない。三十秒でも足止めできれば、ペンちゃんを行かせられる。今なら、まだ。
「弟が中にいるんだっつってんだろッ!」
 二月の冷たい風で、汗ばんだ身体が急激に冷たくなる。
 状況がそれだけ切迫しているのは理解していても、考えとは裏腹に、足は凍ったかのようにアスファルトに張り付いて動かない。
 あんなに一緒にいたのに。弟みたいに可愛いと、本気で思っていたのに。
 もしも時間を元に戻せたなら、あの時の僕を張り倒して、説教したい。説教をして、ほら行け、と。お前が中に行けば良い。後悔することになるから、ずっと忘れられなくなってしまうから、って。でも現実には時間が戻ることもないし、死んだ人は戻って来ない。
「消防活動の邪魔しちゃダメだよ」
 当時の僕がそう言いたくてたまらなかったのは、僕が薄情だからだろうか?
 本音、僕だって、パニックになりたかった。
 好きな人と同じ気持ちになるために必死で自己暗示をかけようとするけれども、そのどれもこれもが、僕を更に冷静にさせた。
 当時、僕の日常は、成績が落ちていた叱責する、ペンちゃんからのメッセージに怯える日々だった。身の丈に合わない進路に、必死で付いていくのがやっとだった僕を、どうしても同じ大学に行かせようとするペンちゃん。そんなのが普通になっていた。
 お前の事が好きだから、お前の傍にいたいから。
 いつも僕のためを思ってくれていた言葉に、どうにか何かを返そうと頑張って頑張って、頑張り抜いて、睡眠時間を削り続けたせいか、日常でも、心と身体が別の場所を歩いていたり、少し遠い場所に離れてしまう、そういうことがよくあった。
 全部はもはや、言い訳だけど。
 ぱん、と音がした。
 ガラスが割れた音だったのか、最上階の窓から煙がもうもうと立ち上がる。僕たちはそれを成す術もなく見上げているだけだった。どうしてか、この時間をやけに長く感じた。
「来たぞ!」
 程なくして担架に乗せられた章君が現れる。
「章君、章君」
 十二歳にしては細い身体は部屋着姿で、眠ったように動かない。他には救急車で搬送されるような状態の人がおらず、章君は乗り付けた救急車にすぐ迎え入れられる。ご家族ですかと問われた僕らは、ごちゃごちゃ説明するのも馬鹿らしくなって、はい、そうですと答え、一緒に救急車に乗せられる。
 まだ泣いてなんかいない。生きていると信じていた。
「戻ってこい、戻ってこい!」
 一見すると火傷はそれ程でなかったけれど、一緒に乗った救急車の中で続けられる蘇生処置には目を瞑って脈を戻してくれない。
「火傷の方はそれ程ではないのですが、一酸化炭素を吸っています。蘇生の手当を行います」
 お願いします、お願いしますと何度も頭を下げる。
 指定された待合室で座らされ、待つ間にやってきたペンちゃんの両親(この時初めて僕は顔を見た)と一緒に、通された手術室でも、まだ章君は目を瞑っていた。
「………これです」
 栗林さんにスマホの画面を示す。

 13日午後3時半頃、………の鉄筋コンクリート45階建てのマンションから出火、一室が全焼した。火元と見られる一室から男児一人が見付かり病院に搬送されたが、死亡が確認された。
 警視庁によると、この部屋に住む医師・西園寺さんの次男の章君(12)とみられるという。西園寺さんと妻と長男にけがはなかった。
 東京消防庁によると、窓や玄関は施錠されており、章君はキッチンに面した約50畳のリビングダイニングで倒れた状態で見付かった。警視庁は現場の状況から、キッチンから出火した可能性が高いとみている。
 近所の会社員松林ミサキさん(28)によると、マンションの一室から煙が上がった。しばらくすると子どもが運び出され、心臓マッサージを受けていた。帰宅したらしい長男が泣きながら大声をあげていたという。
 同じマンションに住む女性は「自分にも子どもがおり、このようなことがありショックだ」と話した。

「一通り読んだが、これがどうして『殺した』になるんだ?」
「事実を並べただけなら火災事故でした」

 僕は鞄からペンシースを出し、そこから一本の万年筆とボールペンを取り出した。

 クロス、クラシックセンチュリーのクロームカラーの万年筆だ。

 銀色のボディをした細い軸は、年季を帯びたように劣化して少し黒く変色している。本体には元からライン模様が入っていたが、使われる過程で、何か鋭利な刃物で傷付けたように、一本、細長い線が途切れ途切れに刻み込まれていた。

 もう一本は同じクラシックセンチュリーのクロームカラーのボールペン。こちらも同じように黒く変色していて、このボールペンにも途切れ途切れの線が一本だけ刻まれている。

「万年筆とセットで買い、章君にプレゼントしたものでした」
 事の次第が掴めずに栗林さんがまじまじとクラシックセンチュリーを見詰める。
「この二本は、彼が最期に握りしめていたものなんです」
「万年筆も?」
 子どもが使うようには思われなかったらしい。
「絵とか図形、数式を書いたりするときに、割と使いやすかったみたいです。ボールペンも使うことが多かったんですが、本人としては一回の筆記量が多いときには万年筆、何かを参考にしながら書いたり、間に確認を入れたりしてペンを外気に晒す時間が長いときとか、筆記量がかなり少ないときにはボールペン、という使い分けになっていたみたいです」
 クラシックセンチュリーをまじまじ凝視して、触れてもいいか、と僕に断りを入れる。
「どうぞ」と僕が言ったのを聞いてから、手に取る。
 一言の事前確認や、そうしても良いかの事前の承認。ペンちゃんには出来ない芸当だったな、とどういう訳か、元既婚者の栗林さんとペンちゃんを脳内で比較してしまう。何故だろう?
 例えば煙の出る匂いの強いハーブがあって、それを吸い始めようと火をつけてから、「吸うけど大丈夫?」と聞くような人だった。勉強やスポーツでの能力が高かっただけに、そういう確認の出来なさや、「親に認めて貰えないから、料理したり、スポーツ頑張ったり、凄いよな」とかいう、言わなくても良い一言を、それも思慮の浅いことを言うから、チームだったり部活、学校という括りがなければ友達関係が続かない人だった。
 二人は全然似てないのに、重なって見える。……変なの。
「文章を書くことはなかったか?」
「は?」
 見当違いの質問に、僕は思わず素っ頓狂な声を出してしまう。
「文章でなくてもいいが………例えば、一文字でも平仮名やアルファベットを紙に書いたりすることはあったのか」
「数式としてのアルファベットや、記号としての文字は理解できて、使用していましたけど、日本語としての言葉だったり、文章を組み立てるのは、そもそも出来なかったはずです。会話だって、全部、数字でした。数式での会話というのも聞いたことがありません。少なくとも、僕は」
 それが原因で、ペンちゃんが章君に必要だったんだろうに。
 何を言っているんだ。この人。
 というかそもそも、文正の人たちがどれくらい、僕のセクシャリティーを知っているのかは分からないけれども、この人にここまで喋ってしまって、果たして大丈夫だったのだろうか。と、ここにきて、急に不安になってくる。
 僕の心配を知ってか知らずか、ペンを矯めつ眇めつしながら栗林さんは目を細める。
「そうか。すまない。変なことを聞いた」
「いえ。大丈夫です」
 クロスのボールペンや万年筆には全て、永久機関保証が付けられている。古い製品も含めて、部品が換装できるようであれば、修理を依頼することができる。
 絶対にこの二本だけは、修理することはないだろう。
「僕が使っていたのをいつもジーーーっと見ていたので、お店で買ったんです。同じものを、七歳の誕生日に。すっごい喜んでくれて」
 キャップを開けるとペン先の先端部のイリジウムは、五年ほどの使用でかなり磨り減っていた。ペン先のメッキも疲れが出ていて、いつも使われていたことを示していた。FニブはMにやや近い字幅になっていた。僕の覚えている限り、章君の存命中には多い時には月七回以上、少ない時でも月一回以上はインクの補充や洗浄をした記憶がある。
 クロスの純正ボトルインクのブラックだったか。
 それもどういうわけか、兄のペンちゃんには触らせなかったのに、インク補充やペンの洗浄はいつも僕に頼んでいた。
 ボールペンも年一回は替え芯を交換していて、黒のFだったのを今でも覚えている。
「火事そのものは、家電からの火災でした。火元はプリンターです。後にリコール対象になっています。プリンターはいつもスタンバイモードでリビングに置かれていたんですが、その日は何かを一度に大量に印刷していたようでした。
 印刷物を印刷している間に、接続不良の電気系統が不調を起こして、出火。印刷中のまま本体が噛み付いていた紙に延焼、リビングには大量の印刷物が散乱していたそうで、印刷物に火が付きました」
 スマホに入っていた画像を示す。
「印刷物というのは?」
「分かりません。燃え残ったのを見ると、どれも図形が、残っているものは同じ図形が書かれていたみたいですけど………何が書かれていて、何を意味しているのかまでは」
 写真にある燃え残りには、どれも計算されたかのように丁寧に引かれた、六角形。
 どれもこれもがその絵だったが、こればかり印刷した理由はついに分からなかった。
「酷い状況だったんだな」
 近くに置いてあったノートPCのバッテリーが火の温度で破損、破裂した。警報の音が鳴り響く中、激しく飛び散った部品が刺繍の施されたカーテンや、毛で編まれた絨毯に飛び散った。章君が蹲る格好で発見されたのは、この破裂から身を守るためだったというのが結論だった。
 勢いを増した火は、更に激しく部屋を火に巻いた。
 でも章君は僕たちや家族からスマホの使い方を教えて貰っていたけれども、その番号を押したきり、消防であることを電話で伝えられなかった。
 それから十分ほどして意思を伝えられない通話を諦め、電話を一方的に切り、ペンちゃんにコールするけれども、その電話が通じる前に、章君は意識を失った。
 もうその時には木製の高級家具や、本革のソファーまでもが、バッテリーの破片や絨毯により火に巻かれていた。一酸化炭素の充満した部屋で、中毒症状を起こしたためだった。
「火が出たタイミングで、どうして……」
「逃げられなかったんです」
 普通の状態だったら、逃げられた。
 サヴァンとかは関係していない。
「だから電話が出来なかったのも、一酸化炭素だけのせいじゃない……んです。出火の時には、もう意識は混濁していた。検視の結果でも、そう言われています」
 分からないという顔をする栗林さんに、僕は目前に置かれたチョコレートを摘んで示した。
 干上がるまで泣いたのに、鼻がツンとする。
 甘くて、苦い、香りがする。
「その日の西園寺家の冷蔵庫には、バレンタインデー用に僕が買ったお菓子の材料をしまってありました。それから、一緒に食べようとしていた、手作りのブラウニーが二種類。
 そのうち一つはカカオマスを使った、少し苦い味の、僕とペンちゃん用のもの。
 もう一つは、カカオを使っていない、甘い、章君用のブラウニーでした。
 二つのうち、カカオマスのものだけが先に食べられていて、それがアナフィラキシーショックの原因だろうって、後になってから分かりました」
 軽症なら死ぬほどではないけれども、酷い人になればアナフィラキシーショックを起こすこともある。章君には食べられないアレルギー食品が幾つかあり、その問題を解決する食卓の提供も僕の役目だった。
 西園寺家で季節のイベントが行われなくなったのも、そういった理由からだ。
 僕が章君のために用意するチョコレート菓子にはチョコレートは使っていない。キャロブ、日本ではイナゴ豆と呼ばれる豆をパウダーにしたものをチョコレートの代用にしていた。
「チョコレートアレルギー、だったのか」
 頷いて、涙が落ちてしまう。
 ハンカチを渡され、拭った。
「すみません………。
 いつもは器も調理器具も全部別のものを使ってました。絶対に二つのものが混ざらないようにしていたのに。章君は、あの日、いつもなら、絶対に食べない方を食べてしまった」
 重なり、重なる。
 印刷された同じ図形の紙が、灰になって降りそそぐ。
 後悔はいつまでたっても足元に降り積もる。
 他の人も、こんな気持ちになって生きているんだろうか。
 だとしたら、どうやって前に歩いているんだろう?
 僕はまだこの灰色の世界の、歩き方を模索している。
「ちゃんと言っておけば良かったんです。僕も、ペンちゃんも、外に出ないからって、本当のことは教えずにいて……章君の身体のせいで別に作っておかないといけないって、思われたくなかった。これは個人で好きな味が違うだけだからって、いつも、そういうことを言ってごまかしてしまった」
 プリンターだけなら、火災は小さなボヤだったろう。
 プリンターだけなら、火災は小さなボヤだったろう。
 違法駐車に、交通事故。
 言っておくべきを、言えなかった僕と、ペンちゃん。
「それで、殺した、か」
「お通夜で言われたんです……」
 ひりつく喉から空気が抜けた。
 野生の動物を前にしたみたいに、時間が止まる。
 ここまで来て、揺れる。
 言っていい?
 ここにいない章君に聞いてみる。答えてはくれない。足元がとても冷たい。冬のフローリングの温度のせいなら、けだし口も軽かったろう。
 口を噤みたくて堪らないのに、ここで口を噤んでしまえば、二度と言えないかもしれないのも理解していた。「言いたくない事は言わないでいい。
 こっちは聞くことしかしない。
 ババアみたいな千里眼は無理でも、赤の他人にでも話したら違うか、と思っただけだから」
 突き放すように言いつつ、その口角を和らげる。
 それで気づいた。ペンちゃんの雰囲気に似ていると勘違いしてしまったけれど、栗林さんは弟の章君に似ていた。
 否定を持ちながら、否定のありかを絶対に悟らせない、そんな目の感じが。
 章君は言葉で言い返したりはしなかったけれど、確固たる意志でやりたいように生きていた。
 兄の人生を狂わせていると自覚している癖に、あくまでも無言の下でやりたい事、希望を強く持っていて、一生懸命な子だった。優しいようでいて、心の芯は強くて、誰にも曲げさせない。
 ペンちゃんも意志の強さは似ているけれども、あくまでも人の目を、自分と言う存在の価値を写すための鏡にしていた。
 誰からどう見えているのか?は確かに大事だけれども、ペンちゃんにはむしろそれだけだった。いつも人の目に映る自分しか見ない。だから人の目がなくなると、もうそこに彼はいなくなってしまう。弟の凄さとか、親の資産、たくさんの友達。僕も彼にとっては鏡だったのだと、気づいたのはいつだったろう。覚えていない。
「大丈夫です」
 呼吸を整えて、視線を戻した。
「葬式の日、僕はこのペンをペンちゃんの両親から渡されました。弟の遺品を、兄のペンちゃんは目にするのも嫌だと言ったらしくて」
 火事の痕跡と、付けられた傷。
 僕だって見るのも辛かったけれど、捨てるのも忍びなかった。
 彼の生きていた時間や思い出の一部を破棄するみたいにも見えたから。
「通夜の日は彼とは一言も交わさずに家に帰りました。それから告別式に呼ばれました。それまでずっと連絡も寄越さなかったし、僕からも連絡をしなかったので、呼ばれた意味がわからなかったんですが断るのも気が引けて、行くことにしたんです」
 そこで呼ばれた理由がやっと分かった。
「章君はいくつかの書籍や、図形アートの本を、文筆家や研究者の人たちと一緒に出していたんです」
 テレビでのネームバリューや、他に類を見ない個性が手伝い、章君についての書籍はかなりのダウンロード数となっていた。得られた収益は当たり前のように親御さんに渡る手はずになっており、確かにその金額のほとんどはそのように動いていた。
 それが彼の死後、一部のお金が、彼の意志で、両親も関知しない合間に別の口座に振り込まれていたことが判明した。
 そんな芸当をやってのけるには親に隠れての意思疎通ができる、誰か仲介者が必要になる。いつも編集者たちとの席にも必ず家族が同席した。では家族の知らないがとなると、誰の仕業かは火を見るより明らかだった。栗林さんもそこはわかるからか、あえて違うことを訪ねる。
「そんなこと、ほんとに彼が?」
「僕にもよく分かりませんでしたが、章君の希望は、「自分のお金がほしい」、でした。だから、内緒で、メールのやり取りをしたり、一部のお金がそこにいくよう手配しました。通帳や印鑑は彼の部屋の本棚の奥に隠して保管したはずでした」
 僕は誓ってお金に触ってなかったが、この幾らかのお金が更に疑念の雪を深くする。
「まさか、その口座の名義が、西園寺章名義になっていなくて、お前の名義にでもなっていたとかじゃないだろうな」
 流石に鋭い。口座を新たに開設することが叶わなかった僕は、名義を貸す形で、適当な言い訳で父を騙して僕名義の口座を開設し、判子や通帳は章君に渡すことにしたのだ。本人確認を切り抜け、未成年だけで口座を作るのはこれが限界だったのだ。
「なんでそんなことを……」
「自分のお金がほしい。って言う悔しさは、僕にも分かってしまったというか……あの子が欲しがったものは、そんなに買ってもらえなかったし、外の世界のこともあまり知らなかったのも、悔しかったんです」
 栗林さんは口をへの字に曲げて、うーん、分からんでもないが、と唸る。犯罪そのものとしか言いようなしか、やっちまった人を見る目になっている。
 無知は怖い。詐欺にも当たる。今にして、呆れるばかりだ。たまにマンションで章君の編集担当さんと会っていたり、章君の思いを汲んでくれと頼み込める関係値があった背景があったにしても、あり得なかろう。
 事に加担した担当さんも、なかなか恐ろしいことを買って出た人だが、僕の親のことや素性を知っていたからというのもあったかもしれない。
 あわせて、ご両親の無関心さも甚だ凄かったの一言に尽きる。危うい。
「訴えられても文句は言えない」
「父にも同じこと、言われました」
 お金は親に戻されることになるはずだったが、そこにまた一悶着が起きる。
 のは、想像がついたらしく、「金を引き出してほしいとか、頼まれてたことがある、とか言うんじゃないだろうな」と水を向けられる。
 もう分かってしまわれることには店長で慣れていたので、何やら栗林さんが気付いているなと勘づきながらも続きを話す。
「亡くなる少し前に、頼まれたので、お金をあらかた引き落として、彼に全額渡していました」
 結論からいくと、そのお金は全て、跡形もなく消えてしまったのだ。
「消えるなんてことあるか。幾らの話をしている? 五万や十万にしても、何処かに隠したとかじゃないのか」
「約五年で、1,875,000円です」
「は?」
 声の主は栗林さんだった。
 流石の額面だったらしい。いつもモンブランの顧客を相手にしていても、十二歳の子どもが稼ぐ額としてはパンチがあったのだろう。
「銀行に何回か足を運んで引き下ろしてます。額は間違いじゃありません。これでも、彼の稼いだお金の一部だったはずです」
「……いや、確かに、そうか……おかしくはない、のか。この子の能力があったなら」
 栗林さんがフリーワード検索から画像検索に切り替えると、オークションの過去実績や書誌情報などが画面に踊る。
 本人作の図形をもとにしたイラストは、海外オークションで途方もない額で落札されるというニュース記事に行き着くのにそう時間はかからなかった。
 始めはただのお遊びのような、数式や図形の落書きと思われたイラストは、章君がテレビに取り上げられたことで、ニューヨークの現代アートのバイヤーの目に止まった。海外でもSNSから拡散され、海外オークションに出るや、新人作家の通常の数倍もの額で落札された。
 現代アートの世界は、ファン如何でその取引額は何百倍にだって跳ね上がる。草間彌生や奈良美智とまではいかないけれど、現代アートのファンに彼の作風は期待と共に受け入れられ、最初の個展はニューヨークで開かれた。
 もちろん、章君は外に出られないので、彼はずっと世界からの反響を、寂しい部屋でどこか他人事のように聞いていた。
 学校に行けなかったから彼は作品ばかりを溢れんばかりに世に生み出し続け、そこで稼いだお金が幾らなのかも知らされずに、この世を去るまで、ファンの一人とも顔を合わせることなく、寡黙な子どもを生きた。
「だから、お金を、リスクを犯してでも手渡したかったのか」
「はい……」
 サヴァンの芸術家にして数学者を取り上げた本は何冊もあるが、文字の本が読めなかった彼のもとには、数学の本だけがあり、全ては消費された。
 死んだ章君のお金もまた、今の通り、西園寺家の一人息子の放蕩に浪費され、夫婦はありあまる富で、子どもたちと距離を置きながら、自由を謳歌するに至る。
「お金を、渡したかった。その気持ちは分かった。だが金がなくなるなんて、あるのか?」
「僕もいまだにどこにいったのか、分からないんです」
 僕が渡したお金を章君が受け取ったことを証明するために、受け渡しの際に押してもらった拇印のされた受領書が見つかり、渡した現金を受け渡したときのやり取りを、念には念で、録音したデータも僕のスマホにあったので、この二つが受け渡しを証明はしてくれた。
 また、僕の身辺もまた僕の父や西園寺家の立ちあいのもと、全て確認してもらった。
 お金はついに出てこなかった。
「マンションの防犯カメラでも、念のため人の出入りを映像で確認しました。僕もその確認には立ち会ったんですが、出入りしている人に目新しい人はいませんでした」
 分厚い札束らしきものは火事の焼け跡にも見つけられず、章君の自室の壁紙の下、床下、本のページとページの間までも一枚一枚手繰ったが、やっぱり、お金は見当たらなかった。
「僕の父が、お金を払うことも申し出ましたが、お金を盗んだことを証明できない以上、お金を返すことを強要はできない、と言われました」
「返されなくても困らなかったのか」
「分かりません。ただ、その結果に、ペンちゃんだけが納得いかなかったのは事実です」
 無理からぬかも分からないが、ペンちゃんはついぞ僕が殺したものと信じて疑わない言動を崩さず、僕は事故死を作り上げた殺人者と言われた。口実なのか、本心なのか、彼は僕を弟殺しと呼ばった口で、こう言った。

「金は返さないでいい。働くことも考えるな。穂先がどれだけ汚れていても、俺が養うから、ずっと一緒の時間を過ごしてくれ」

 聞いて、栗林さんは肌が泡立ったのか、身体を震わせ、腕をさする。言葉の通じない、違う世界の道理で動く生き物と相対した顔で、僕の語る、ある高校生に嫌悪感を向けている。勿論、その嫌悪には僕も含まれているのだろう。
 ゾッとするくらい、気持ちの悪い言葉なのに、それでも、当時の僕は、二つ返事で受けてしまった。逃げたかった。ほんとに、それだけだった。
 家族からも、疑念からも、人生からも逃げた僕は、こうしてここで、またペンちゃんからも逃げている。逃げて、逃げて、逃げ切ればいいのに、いつかは失くした家族の穴を埋めると誓いながら、まだ拘っている。あの寂しい天才の死に様に、重い十字架を掲げることに甘えている。

「幾つか、結構な勘違いをしているようだが、もし現実の裏側が分かったら、……あんまり良い気持ちには、ならないだろうな。……それでも知りたい、と思うか?」

 いつの間にか、日差しは午後へと傾き掛けていた。
 千里眼の遣わせた栗林さんは、最初から僕に四年越しの答えを伝えるためだけに、話を聞いていたのだと言わんばかりの様子で、野生の猫の眼光を揺らす。
「お金の在り処、分かったんですか」
 これまで重ねた時間が馬鹿らしくなるような言葉だった。空しさとも許しとも言えない怜悧な刃物が胸に突き立つのに、笑っちゃうくらい、当たり前にその無慈悲な回答を求めてしまう。
 知りたかった。
 僕の気持ちよりも先に、彼の残した功績の一部を、あるべきところにかえすために。

「分かった。と言っていいかは、大先君、君次第にもなるだろう」
「僕次第?」
「もっと言えば、その金は、もう金の形では残っていないだろうな。俺の見当が間違っていなければ、の話だが。約束してくれ。金を取り戻して身の潔白を証明したいだけなら、その目算は捨てろ。
 願いは何一つ叶わないのに、知っても誰も得しない事実だけが残る」
「それでも、教えてください」
「いいだろう。ある人物に連絡を取ってほしい。魔法の言葉を教えてやるから、俺が言った通りに、その人物に言葉を伝えてみろ。まずはそれからだ」
 訳も分からぬままに、言われた言葉を暗記する。
「何でですか、どうしてそんなこと……」
「いいから、掛けてみろ」
 その人物の連絡先は僕の携帯にまだ入っていた。
 電話をすると、数コールで繋がる。
 相手もよもや僕からの連絡があるとは思ってもみなかったのか、面食らったように久し振りの挨拶を交わす。
 通り一辺倒の挨拶をしてから、教わった通りの台詞を伝える。
 やや間があってから、思いも掛けない言葉をかけられる。

「やっと気付いたの?」

 最初こそ意味が分からなかった僕も、次第に電話の向こうの人物から発せられる声を聞いているうちに、「やっと」がいつを基準にした「やっと」だったのか、「気付かなかった」のは何だったのか、どうして僕が魔法の言葉を言うタイミングをこの人が待ち続けていたのか、までは悟れた。
 電話を終えると、僕の鼻先から雫が一滴、こぼれ落ちた。
 借りたハンカチで目頭を覆ったけれども、追い付かない。

 だって、だとしたら、それは。

「どうして、分かったんですか………」
 もうお決まりな僕の質問に、栗林さんは曖昧に後頭部をぽりぽりと掻く。
「うーん。説明しろと言われると難しいが、俺なりに説明をすると、君たちがやっていることは、幾つか微妙に噛み合っていないと言うか。あ、いや、悪い意味に聞こえたなら申し訳ない。……そんなつもりで言ったんじゃないんだ。なんて言うか、そう、現実っぽくねえんだ」
 必死に僕を傷つけない表現を選んでいるのだろう。
 泣いていることで、この人に真実をはぐらかせたくなかった僕は、「言葉は選ばなくて良いです」とも言ったが、「接客業が言葉を選ばなくて誰が言葉を選ぶっていうんだよ」と怒られた。確かに、仰る通り。
「現実っぽくない、というのは?」
「現実っぽくないって、そのままの意味だよ。お前ら三人の関係は、確かに珍しい取合わせだったのだろうし、独特な距離感だったのかもしれない。だが、それにしたって、大先君、ナチュラルに関わりすぎてやしないか。天才という生き物と。もしも本当に人と接することの難しいサヴァンがいたとしよう。何の準備もしていないお前みたいなただのクラスメートに過ぎないクソガキが、どうして特別扱いで好かれているんだよって、俺なんかは思うね。お前の顔がどれだけ良い造詣だとしても、それはそれ、俺からしてみたら取るに足らないクソガキだよ」
 ああ。
 そうか。
 僕は僕という人生の主人公であるけれども、僕はこの世界の主人公ではないのだ。
 忘れてしまっていた当たり前のことだったが、そうして目前に事実を並べられると、素直に疑問を抱くに到ったのも当然だ。
「じゃあ、それは、そこまでして彼が買わなきゃいけなかったものは、どこに行ったんですか?」
「何を聞くかと思えば。それくらいはもう分かっても良い頃合いじゃあ、ないか?」
 そこから、どうやってその解答にたどり着いたのか、後になっても理解していない。
 ほとんど無意識でもってクロスの万年筆を手に持っていた。
 クロスのクラシックセンチュリーの万年筆は、あの火事からインクを入れられておらず、筆記使用をされていなかった。どうしてか。コンバーターが中に入れられなかったせいだ。あの火事の日に壊れたせいだと思い込んでいた。
 違う。僕が手渡されたクラシックセンチュリー万年筆にはコンバーターが刺さっていなかった。冷静に考えたら、そんなのおかしい。あの人たちが、ペンのためにコンバーターを抜くことなどするだろうか?
 抜いたのは、章君以外に、あり得ない。
「ってことは……」
 首軸を回し、胴軸の中を覗き込む。スマホのライトを照射する。
 閉ざされていた暗闇の奥底に、一つ、星が瞬く。
 尻軸側に、それは見事に嵌め込まれていた。
「ピンセット、ありますか」
「おう。貸してやる」
 ピンセットを貸して貰って、奥へピンセットの先を差し入れる。
 火事で軸が変形してしまっていたのか、取り出すために何度か突っつく。
「紛失するかもしれないだろうし、これ使え」
「ありがとうございます」
 黒い合皮が張られたガラス蓋のケースがテーブルに置かれる。
 栗林さんの奥さんに贈られたのだろう、愛を誓ったルースケースを借りてしまっても良いものか逡巡したものの、貸すと言われたのに断るのも気が引けて、有り難く使わせて頂くことにする。
 ピンセットで突いていても埓があかなかったので、クラシックセンチュリーの尻軸を手のひらにぶつけて衝撃を与える。軸の開口部を手のひらに傾けると、ころり、一粒の水滴にも似た薄い桃色を帯びた透明な石が手のひらにまろび出た。
 小粒ながらも照り艶のあるピンクダイヤのルースだった。
 ルースケースに納めると、光を受けて淡くきらめく。
「ダイヤモンドの鑑別書は、後で送ってくださるそうです……」
「そうか」
 章君のことを我が子のように心配していた、編集者の人は、僕が教えて貰った魔法の言葉を聞くや、憤りとも悲しみともつかない声で、僕の住所を問うてくれた。そのうち、ソーティングが届いたら、1,875,000円のダイヤモンドの価値は証明されるだろう。
 ほとんど0.3カラットに迫るカラーダイヤは数ミリサイズだ。
 それも希少なピンクダイヤでクラリティの高い上質なものともなれば、一石で百万円以上の値がつくという。
「どうして、編集者さんが章君の頼みでダイヤモンドを買ったと分かったんですか?」
「順序立てて説明をしておこうか」
 ルースケースに収められたダイヤモンドのルースを、人差し指でチョン、と撫でて栗林さんは人の悪い笑顔を作る。
「そもそも。俺が話を聞いたときに生まれた疑問を、先刻伝えたと思う。
 どうして彼が君をすんなりと初対面で受け入れたのか?
 そこのところ、答えを考えるとしたならば、まあ、サヴァン的な天才ではあったが、彼自身は全くもって一般的な子どもだったと仮定をすれば、君たちの過去物語の違和感に説明がつくんだよ」
 メモ用紙に栗林さんが文字を書く。

・初対面の大先を受け入れられたのはどうして?
・編集者との意思疎通に家族を介さなければならなかったのに、肝心の家族が家にいつかなかったのは何故?
・家族がいない時間があり過ぎるのに、彼自身は生活に支障をきたしていないのでは?
・もしも家族が絶対にいなければならなかったなら、親は仕事を辞めなければならず、片時も離れるべきでないはずでは?
・しかし兄の編君は学校に通い、あまつさえサッカーをし、両親は家にいつかないというのは?

「天才的な才能を、お金に変えようと思ったのが先なのか、お金に変えるために設定を付けたのが先だったのかはわからないが、西園寺章君に与えられた設定は途中から盛られたんだよ。お金をより生み出すが故に。ある時から、日本語を理解できない、人と関わり合いになれない、という大仰な設定に」
「待ってください。もしそうだとしたら、章君の診断は? 彼が言語野に抱えていたという診断はどうなるんですか? テレビでもそういう風に説明をされていましたし、僕自身も彼が数字以外の単語を発しているのを聞いていません」

「親御さんが診断に手を加えることも可能だっただろう?」

 仄暗い想像が、水底に僕を沈める。
 腹の奥底に、どす黒い水が溜まっていく。
「……診断の書き換え、出来たかも、しれません」
 最初に診断を下したのは、他ならぬ章君の父親だった。脳科学者たちの研究対象になりながら、章君は厳密な親の管理下に置かれていた。僕たちが知る章君の記録やデータは閉鎖的な状況で作り上げられている。何もかも全てがでっち上げではなかったろうが、一部には作為的な改竄が、それも収益性を高める意図があったとしたら?
「お金のために、そこまで……!」
「医者の仕事は研究活動にもあるらしいじゃないか。論文だとか、新技術の発見だとか、ドラマでもそういう台詞があるだろう。俺たちには計り知れんさ」
 重大な見落としはまだあるぞ、と酷薄な言葉で栗林さんが畳み掛ける。
「本当に、その家族のありのままを受け入れようと思うのなら、兄である編君は弟に『普通』を押し付けないだろ。ふつー。個人の価値観にしちゃ、ずれてやがる。そんな弟に、『普通』を勝ち取らせようとしてる奴が居たとしたら、欺瞞か悪意の二択を連想するけどな。だけど、元彼君は弟想いに嘘偽りはないってんだから、これはもう、矛盾だぜ」
「あ、そっか……」
 僕の抱いてきた、歪んだ王国への違和感。
 ぱちり、ぱちりと、ジグソーパズルが一枚の絵に近づいていく。
「友達に知られたくないってリスク侵してまで、大先君が呼ばれた日。西園寺兄弟には違う思惑があったんだよ。一つ、ネグレクトを誰かに告げ口して貰えないかっていう期待。二つ、事実査証を告発してくれないかっていう期待。両方とも見事に裏切られてしまった訳だが」

 言ってくれなきゃ、分からない。
 言いたくないなら、選ばないでよ。

「……どうして、僕じゃなきゃ、いけなかったんですか」
「ん?」
 すっかり冷えていた紅茶を、淹れ直すか、と栗林さんが立ち上がる。
「僕は気付けませんでした。それに、僕がたとえ気付いていたとしても、真実を誰かに伝えるかは、僕次第になっちゃいます」
「知るか。そんなの」
 突慳貪に云いながらも、「俺の想像になるが」と前置きして、顎をさする。
「サッカーのときには弁当を自分で作っていた、それきっかけで話を持ち掛けられた、んだったよな?」
「はい」
「俺さ、小さい頃に親が死んでてさ。親以外の人に育てて貰ってんだ。
 弁当をさ、うちの保護者は作ってくれてたんだけど、まあ人間だからさ、何回か、やむかたなく作って貰えない日があったわけだ。そんな日、俺は自分でそれらしい弁当を作って、いや、別に人に言うわけでもないんだけどさ、あたかもいつも通りを装ってたんだ。親が死んでいることと弁当は直結してないんだ。頭では分かっていたけど、俺は自分のそう言う過去が一ミリでも漏れるのを許せなかった。言っている意味、分かるか?」
 飄々としている風な栗林さんに、そんな子供時代があったなんて。
 新しいお茶の湛えられたティーカップで手の平を温め、頷く。
「気持ちは、分かります。僕、片親だったので……」
 その言葉を聞き、安心したように頷き返し、気恥ずかしそうに視線を伏せた。
「ならいい。お弁当を親が作っていない家なのに、自作したと言えちゃったお前は、元彼君からしたら、すごい奴に見えただろ。あん時の俺がさ、お前たちと同じチームで弁当を広げていたら、すげえな、ってなったよ。親のこと思い出して、泣きながら弁当作って、誤魔化してたからさ」
 絶対に父親が弁当など作れないからこそ、あの父親に反発する気持ちから作り始めた。
 料理はぼんくら息子の持てる唯一の武器だったから、すんなり明かせたのかもしれない。
 意地だっただけだ。
 すごい、だろうか?
 栗林さんの過去に切なくなりながら、「趣味だっただけで……」とだけ言った。
「親からの庇護を受けられなかったばかりか、親の片棒を担がされているから、親に頼らない君を選んだ。一人で抱えきれなかったんだろうな」
 時間が砕けて、一つに溶ける。
 小学生の僕に、幼い頃の栗林さんが向き合う。
「選ばれた大先君は兄弟二人に取っての家族として信頼を勝ち得る。信じられる唯一の仲間に、サヴァンの秘密だけは隠された。あくまでも第三者からの声を待ったのは最初だけで、あとは言うべきか言わないべきか、それだけだったろう。ついに弟と兄とで、意見が分かれる。預金口座の開設を章君が申し出たのはそれが原因でもある」
「ちょっと待ってください、それじゃあ、まるで」
「まるで、もヘチマもあるか。兄は真実の暴露を願い、弟は偽りの人生を望んだ。お前が来たのは誰の手引きだ。後になって通帳を作らせたのは誰だ」
 中学生の僕をとっ捕まえて、大学生くらいの栗林さんが睨め付ける。
「兄妹の意見の食い違いは、年々深まる。兄は弟を止められない。それで、いけそうだったお前とそういう関係になろうとしたのか、瓢箪から駒で利用したのかは知らんが、お前との関係を弟に匂わせた。だが弟の思いは一層に固くなる。ならもっと、ならもっと、で兄弟の溝は更に深まった」
「待って、ちょっと、待ってください!」
 この人、割と言葉が足りない。
 ずんずん先に喋ってしまうのを必死で追う。
「僕とペンちゃんがそういう関係になるのと、章君が真実を明かすのが、どうして関係するんですか!」
「まだるっこしい。魔法の言葉、唱えてみろ」

『もう編君とは別れました。あれを見つけて、章君の気持ちに気付いたんです』

 教わった通りに、繰り返した。
 編集者の方は、ややあってから、深いため息を吐いた。それから
「遅すぎますが、鑑定書を送ります」と言われ、
「二人で選びました。彼の頼みとはいえお金を持ち出し、あまつさえ出てこなかったらと思うと怖くて、言えませんでした、すみません」と謝られ、
「今度、一緒にお墓詣りに行きませんか」とも誘われた。
 時間の旅路が、今の僕を重くする。
 重さに耐え切れず瞼から熱が落ちる。 

「章君は、僕に、これを渡したくて、続けて、いたの?」

 ダメだよ。そんなの。
 そんなのって、ないよ。
 溺れ死ぬ。涙が止まらない。
「それで、万年筆……」
「ああ。万年筆に触る人間になら、バレずに渡せると考えた。もしも買い求めたプレゼントが家族に見つかれば、渡せなくなる。それだけは避けられるように、径がぴったり合うものをと考えたが、なかなかありものではどうしようもない。一等細いのを手に入れたがったのも、そういうことだったんだろうが、石を買う段になって、3カラットの予定を0.3カラット弱に変えたのかもしれないな」
 ポケットに入れっぱなしの、高いリングはペンちゃんに貰ったけれど、エンゲージのリングは考えもしなかったから、ダイヤモンドのカラットはよく知らない。
 ほれ、貸してみ、とクラシックセンチュリー万年筆の首軸を外し、スマホのライトを僕に持たせて、万年筆用に持っているルーペで中を覗き込む栗林さん。
 猫目を細めて、はは、と笑う。
 また何かを見つけたらしい。
「ふ……やっぱりな。あんな4ミリくらいの石を、1センチ強の軸にはめ込むなんて芸当、どうやったと思うよ? 大先君」
 言われてみれば、ルースケースの中のピンクダイヤは直径およそ4ミリくらい。
 細い軸といえど、クラシックセンチュリーの尻軸に噛み合わせるには小さすぎる。
 どうして、石は落ちなかったんだ?
 コンバーターは刺さらなかった?
「ははは。笑っちまうな。馬鹿みたいだぜ。世紀の天才だ。ライト当ててやるから、奥の方まで見てみな」
 言われて、ルーペをクラシックセンチュリーに当てる。
「これ……って」
 さっきまでは石の輝きばかり見えていたから、よく見えていなかったのだ。
 軸の奥底、キラキラとした銀色の光が乱反射して、万華鏡のように光を照り返す。
 何本もの銀色の平べったい線が、軸の内部で精緻に編みこまれる。
 銀色の線によって描き出されるのは、複雑な五角形の連続。
 芸術作品めいた、メガロポリスのリボンが、軸の内側に敷き詰められていた。
 クラシックセンチュリーは乱暴に扱われたこともあったはずだ。
 それでもなお、一石のダイヤモンドを何年もの間、守り抜いたプレゼントボックス。
 どうやってこの小ささで編み上げられたのか見当もつかない、銀の箱。
「あんまり強く突っ突かなくて良かったな」
「……これ、お菓子の、ワイヤータイ、です」
「ふうん。そういう名前なのか。あのラッピングに使う、針金の入っている金属っぽいリボン」
 あの火事の日、僕の用意していたブラウニーは、二種類。
 一つはチョコレートで作られ、もう一つはキャロブで作った。
 例年、完成したらラッピングをして渡していた。
 あの日、冷蔵庫にあったものはどうなっていた?
 十三日は、金曜日。
 でも十四日には出かける予定があったから、先に物だけを作っておき、ラッピングは西園寺家でやって、渡す予定だった。つまりラッピングは施されていない。
 二種類のお菓子を見分けるために、いつもワイヤータイの色も金色と銀色にしていた。
 銀色がペンちゃん用で、金色が、章君のものだった。
 火事の後、冷蔵庫の中身は鑑識の人と確認したけれど、ラッピングなんて、誰も気に留めていなかった。
 あ、と声が漏れる。
 クロームカラーのクラシックセンチュリーに合わせて、銀色のワイヤータイを使い、ダイヤをセッティングした。そこまでは良かったが、セッティングし終えた後になってから、まだブラウニーにラッピングが施されていなかったことに気づいたとしたら?
 あながち、有り得ないとも言えない。
 章君は天才的だったけれど、発想が生まれると後先考えずに作業に移ってしまうところがあった。
 それは嘘偽りなく、彼の個性だった。
 だけどその日、彼も焦っただろう。ワイヤータイそのものは高いものではないけれど、銀色だけがほぼなくなっていたら僕だって不審に気づく。ペンちゃんも犯人が誰か気付いてしまう。もうお金はプレゼントに変えられたけれど、いま少しだけ、あるいは自分一人で生きられるようになるまでは、隠したかったのかもしれない。
 真相を僕に悟らせるべきではないと考え、時計を見る。
 外に買いに行って補充するには、リスクが高く、時間的にも厳しい。
 僕たちが帰ってくる頃合いまでに、どうにか誤魔化せないか考えながら、まずこれまでの時間で制作物を作っていないと兄や家族に怪しまれると考えたのか、プリンターのコピー機能で印刷物を吐き出させる。作品を作ろうとしていたのかもしれない。手先は異様に器用だったので、この頃には紙の立体アートも手掛けていたはずだ。
 ふっと、悪い考えがよぎる。
 食べてはいけない、もう一つのチョコレート菓子。
 いつも言われる言葉の理由を、普通の判断力を持つ、悪知恵ある子供として、きちんと理解していたとしたら?
 体調を崩しても、必ず僕たちが帰ってくる時間は決まっている。
 少量であれば、大事に至らないんじゃないか。なんて、考えていたら?
 今日のイベントが延期になれば、お菓子はにべもなく破棄される。イベントごとのお菓子はほぼ全て章君のために作られていたし、ペンちゃんも変なところ義理堅く、弟が食べなければ手をつけなかった。
 僕は、手作りのお菓子や食事で人が体調を崩すのを嫌い、一日のうちに食べられなかったら新たに作り直していた。一日だけ。その日を稼げれば、ブラウニーは必ず破棄される。
 土曜日、僕だけが一日予定が入っていたから、土曜の午後、ペンちゃんが先に戻ってくる。ペンちゃんが食べ物を捨てるときは、適当にゴミ箱へ投げ入れるので、切り分けてあったブラウニーの数の差はバレないと踏んだ。
 翌日の予定に僕たちが家を空けている間に、編集者さんとだけ隠れて連絡を取り合っていた章君は、ワイヤータイを買ってきて貰う。彼の現状を気遣っていた編集者さんは、それくらいの願いなら内緒で聞いてくれただろう。

 うまくいったのに、最後の最後で計算が狂った。

 現実を知っているようでいて知らなかった天才は、最後に二本のペンを握りしめて蹲った。

 お金の在り処はともかく、弟がしくじったこと、経緯について一部見抜いている。
 だから「お前が殺した」んだ。

「聞かなければ良かった、話だっただろう?」
「いえ。ありがとうございました……栗林さん」
 時間を超えてやってきた、奇妙で美しい、世界最小のプレゼントボックスをしめた。
 このペンを、僕は一生手放せないだろう。
「4Cは、カラットの「重さ」と、カットの「カッティング」、カラーの「色」と、クラリティーの「透明度」。普通は大きくて透明度が高く、色のない、綺麗なカッティングのダイヤが好まれる。だが天然で見事に濃い明るい色の付いたダイヤとなると、透明なダイヤよりも産出量が圧倒的に少ない。よって相場が跳ね上がる。
 その額があれば、無色透明なダイヤなら物によるだろうが、1カラット以上の大粒のダイヤにも出来ただろう。推論だが、結局、ペンを傷付けない小さいダイヤにして、……色のチョイスの意図は俺にも分からないが……カラーダイヤにしたんじゃないか」
 この人がやけに饒舌になるのは、気遣っている時なのか。
「お気遣い、ありがとうございます。ピンクなんて、僕には似合いませんよ?」

「古典なら、褪紅(たいこう)は貴族の狩衣(かりぎぬ)の色だ」

「古典って、何です、藪から棒に」
 クラシックセンチュリーのボールペンと万年筆を、目線で示される。
 銀色のボディをした細い軸は、年季を帯びたように劣化して少し黒く変色していた。本体には元からライン模様が入っていたが、使われる過程で、何か鋭利な刃物で傷付けたように、一本、細長い線が、途切れ途切れに刻み込まれている。
 栗林さんの細く白い指が、机を、
 つーっ、つーっ、つーっ、つーっと4回撫でた。
 それで、つーっ、つーっ、つーっと3回撫で、とん、と1回爪で机を鳴らす。
 次に、とん、とん、2回。
 とん、とん、つーっ、つーっ。
 つーっ、とん、とん、とん。
 つーっ、とん、つーっ、つーっ、とん。

 ---- ---・ ・・ ・・-- -・・・ -・--・ 

「ボールペンの傷、ですか」
 栗林さんは答える代わりに、万年筆の線を、机で鳴らす。

 -・-・・ ・・-・- -・-・ ---- --・・- --・-・

「子どもっぽいじゃあないか。こんなに、あからさまなのも。和文のモールス信号だぜ。これ」
 サラサラと紙に文字を起こす。覚えているのか、この人。
「ん? ああ、趣味だよ。趣味。
 ボールペンが、こぞのはる。……万年筆が、きみにこひし」
 スマホに文字を打ち込むと、万葉集が出てくる。

 去年(こぞ)の春 逢へりし君に 恋ひにてし
 桜の花は 迎へけらしも

 去年の春、お会いしたあなたが恋しく、
 桜の花が咲き、迎えているかのよう

 明日からも僕は誰かに取っての人殺しであることは変わらない。
 だけどせめて今日くらい、この手を合わせさせて欲しかった。

 柔らかな桜の花びらが、頰を撫でる。
 一枚落ちた花筏は、きらめいて落ち、砕けて消えた。
 ルースケースが濡れて、まだ桜には早かったことを思い出した。

「ペンの中に何か入っているって、この暗号で気付いたんですか」
 意地の悪い笑みを浮かべ、栗林さんは満足そうに腕を組む。
「字を書くかって聞いただろ。文字の読解の詐称までだよ。これで読み取れるのは。
 ダイヤの件は正直、分からなかった。魔法の言葉で、明確に「もの」を言わせなかったのも、代金に贖われた、くらいまでしか想像ができなかったからだ。
 編集者が通帳に関わり過ぎているから、試しにカマをかけてみろと勧めただけだよ。盗難事件に大きく関わりながら、金の使い道も知らないけど、手だけ貸す、なんて社会人がいるものか。リスクを負わざるを得ない事情を、盾に取られていたんだよ。大方、事実を公表するぞ、って言われていたんだろう。お前からの説得なんて、織り込み済みだ。それで、金がなくなったのに音沙汰なしとなれば、自ずから関われない事情があるからで、カマを掛けるなら第一候補となる。
 コールド・リーディングは販売員に必須の技術だ。覚えておいて損はなないぞ。クソガキ」
 うざい、蛇足だ。
「大先です」
「あとな」
「何ですか」
「言いそびれたが、五角形は、サッカーボールだから、って想像は、安直だろうか?」
 聞かなきゃ良かった。この人は店長より二枚も三枚も劣る。
「凡人の極みッスね……」


 明日からも罪滅ぼしを生きていこう。
 片思いの天才に、報えるかは、知らないけれど。

 また会えたら、いっぱい好きなものを作らせて欲しい。
 そういう気持ちには、イエスとかノーで答えられないかもしれないけれど。



***


 春も終わりの頃、桜の花びらが突風にさらわれる。
 帰る巣を求める緩やかさで、夕焼けの空へと鳥影が解け消える。
 彼が見ていたのは、僕じゃない。

 人を「好きだ」と思ったのも、
 話してみたい、と思ったのも、
 これが初めての経験だった。

 互い違いで、ちぐはぐな自分が、惨めだから。
 身体と心を、真実にしたい、と初めて感じた。
 偽りばかりの人生だけれど、ありのままに、強く焦がれた。

 こんなところから、いつか抜け出す。
 僕は彼と話がしたかった。
 兄を呼びつけ、プリントを持ってきた人は誰、と問い質す。
 自分勝手な僕を見て、兄は不思議そうに答える。
 
 この感情をどう表現するのか。
 そんなの考えているよりもお金を稼いで、兄を使おう。

 後になったらわかるかもしれないし、いつまでも分からなくてもそれで良い。
 欲しいものがある。したいことがある。
 何だかそれだけでいいってくらいに、心と身体が満足なのに渇望している。

 生きている!って感じがする。

 すごい、生きている!って。

 だから、まだ
 怖くて、恥ずかしくて、それでいて切ない
 僕のこの感情にはまだ名前がなかった。



<了>

4話目に続く。


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